ひとつ、ふたつ、
意識しているわけでもないのに口から滑り落ちていく吐息に最初に気づいたのは誰だったか。


「ねぇ、悩み事でもあるの?」
「…え?」


ソファーが軽く沈んで、再び元に戻る。
隣に腰掛けた可愛い顔の男は、あたしの顔を覗き込むようにして小さく首を傾げた。
成長しても可愛いな。記憶の中にある顔と目の前の顔に大した違いはない。言わないけど。
この男の大きく変わったところといえば、性格だろうか。
以前も優しかったけどそれは遠回しで鋭さが目立ち、何もかもが強引だった。
もしかしたら世界はこいつ中心で廻ってるのかもしれないと、何度苦笑したことか。
それがどうだ。10年足らずで人はこうも変われるらしい。

ほんの少しだけ眉を寄せて、あたしが口を開くのを辛抱強く待っているこんな後輩の姿を見られる日が来るなんて…!


「翼って良い男になったよね」
「…なに、急に。も綺麗になったんじゃない」
「ありがと」
「それで、なに考えてたの?さっきから溜息ばっかり」


きょとんと可愛い顔を見れば、まさか気づいてなかったの?と驚いたように猫っ毛の男が目を瞠る。
珍しい顔が見れたことに少しだけ満足しつつ机の上のカップに手を伸ばすと、ついとカップが逃げ出した。


「冷めてるでしょ。淹れ直すよ」
「ありがと」


首の後ろで括られた赤茶色のしっぽが揺れて、離れて行く背中を目で追っていて気づいた。他のやつらはどこ行った?
きょろきょろと視線を彷徨わせると、少し離れた位置から声がする。


「みんな出掛けたよ。残ってるのは俺とだけ」
「さっきまで英士とかいなかったっけ?」
「10分くらい前までは、ね」
「…あたし寝てた?」
「目は開いてたけど。それとも目開けたまま寝れるようになったの?」
「いやいや、そんなことしたら乾燥しちゃうし」


やろうと思えば不可能ではないと思うけれど、無駄なことは覚えたくない。
二つのマグカップを手に戻ってきた男は、再びあたしの隣に座って一つのマグを差し出す。
あたしはそれを両手で受け取って、温かい湯気を上げるマグに口を付けた。
……おや?


「あまい」
「ココアだからね。ブラックばっか飲んでると胃が荒れるよ」
「いつもブラックなわけじゃないやい」
「疲れてる時は砂糖山盛り二杯のココア、甘い物を食べる時はストレートティー、考え事する時はブラックコーヒー。昔から変わってないね」
「記憶力の無駄遣い」
「無駄かどうかは俺が決める」
「……なるほどね。翼にはあたしが疲れてるように見えたってわけだ」
「少なくとも、心ここに在らずって感じだったけど。郭も心配してたよ」
「英士が?」
「そう。俺の仕事を若菜に代わらせるくらいには」


はて、ふわふわな毛並みのあの犬が聡明なこの男の代理をこなせるのか。
ちょっと考えたけど、綺麗な顔の男の性格を思い出してすぐに考えを取り止める。
無理なことをやらせるわけがないから、きっと頭を使う仕事ではなかったんだろう。
……うん。今あの男を思い出すのは毒だ。頭の中から追い払うのが一番。

一人黙々と思考を巡らせてふと気づく。
どうやら賢い後輩たちの間であたしの知らぬ間に無言のやり取りがあったらしい。
つまり、あたしの隣に座っている可愛い顔の男は、あたしから悩み(でもないけど)を吐かせる係りということだ。
あぁほんと、良い男になったもんだ。昔だったらメンドクサイと一蹴しそうなものを。
何だか嬉しくなって、口から笑みが零れ落ちる。


「ちょっとは気が晴れた?」
「うん。翼のお陰だよ、ありがと」
「なにもしてないけどね」
「あたしの為にココア淹れてくれたでしょーが」


お姉さんは嬉しいよ。にやりと笑うと、こつんと頭を小突かれた。
……あれれ、なんか機嫌が悪くなってないか?
優しくなったといっても、こいつが不機嫌になると厄介だ。猫目の少年に連れられてここを訪れた時を思い出す。
こってりどころかぎゅうぎゅうに絞られたぞ。雑巾気分はもうご免だ。


「言っとくけど、俺はの後輩ではあっても弟なんかじゃないから」
「似たようなもんじゃん」
「若菜たちに言うならわかるけど俺とは同い年だろ」
「細かいなー。あたしが姉じゃ不満ってか?」
「不満だね」
「じゃあ母親」
「あり得ない」
「……はんこーき。好きでやってたから育ててあげたなんて嘘でも言えないけどさー。その態度は流石にへこむよ?」


可愛くない可愛くない。ソファーの上で折り曲げていた膝に両手を置いて、立ち上る白が薄くなったマグを睨む。
優しくするなら最後まで徹底的に優しくしてくれれば良いのに。翼もまだまだ詰めが甘いな。

はあ、と今度は意識的に吐息を落とす。すぐ横で気配が揺れた。


「お互いもう子供じゃないんだから、そろそろ俺のこと家族ってカテゴリーから外して見てよ」


囁きが熱となって耳に落ちる。
外せって言われても、この可愛い顔の男があたしより小さくてあたしの怪我を見て泣いてた頃から知ってるあたしに、今更どうしろと?
翼に限ったことじゃないけど、ここにいる全員はあたしにとって家族のような存在なのに。

はあ。零れ落ちた吐息とともに苦笑い。
どいつもこいつも似たようなこと言いやがって。いっそのこと刷り込みの一種だと全否定してやろうか。
あたしの隣で優しい優しい笑みを浮かべた翼は、愛しむような手つきでやわらかくあたしの髪を撫でた。



しまぎれのローキック
「取敢えず、お友達から始めとく?」