世話が焼ける。部屋の隅で膝を抱えて蹲る少年を見て、人知れず溜息を吐いた。 数日前に来たばかりの少年が食事もとらずに部屋の隅っこで座り続けていると聞いたのはついさっき、食糧を調達した帰りだ。 眼つきの悪いガキと言われて誰のことかわからなかった。 それからはたと考えて、そういえばちょっと前に一人拾ってきたんだっけと思い出す。 薄汚れた布を頭からすっぽり被っていた少年。名前を訊いても答えないから取敢えず部屋を与えて後は放置してたんだった。 …それがまさか、あれからずっとそのままだったなんて、ね。 コンコン、扉を二回ノックしても返事はない。あたしは小さく息を落としてノブに手を掛ける。 「入るよ?」 薄暗い部屋に気配が一つ。 この部屋を使っている他のやつらは今頃夕食の支度の真っ最中だ。 暗闇に慣れた目が小さな塊を見つけて、あたしはゆっくりとそれに近づく。 「ねぇ、お腹空かない?何も食べてないんだってね」 「…」 「水だけでも良いから何か口にしないと干乾びちゃうよ」 「……」 これ何のストライキ?拾ってきた手前放り出すことはできないが、勘弁してほしい。 同室の子たちも気にしてるみたいだし、こんなところで死なれても厄介だ。 あぁ困った。あからさまに息を零してみても茶色い塊(顔が全く見えない)は微動だにしない。 「こんなとこ来たくなかった?」 「…」 「ま、そーでしょうよ。きみは随分裕福な暮らしをしてたみたいだし?こんな汚い場所は嫌だろうね」 「……」 「でもね、あの時も言ったけどこの世界で生きていくならきみはまず今の自分と向き合わなきゃならない」 ぼろ切れの下の服は素材のしっかりした上等の品だった。この子はきっと、生まれた時からなに不自由なく生活していた幸せな子供。 あんな場所は見たこともなかっただろうし、目が覚めてあんな場所にいてさぞ驚いたことだろう。 声を掛けた時の剥き出しの恐怖を思い出す。手を伸ばしただけで泣きそうで、噛みつかんばかりに警戒していた。 後少し迎えに行くのが遅かったら今頃どうなっていたことか。この子がぼろ切れをしっかり羽織っていてくれて良かったよ。 視線を落したまま意識を別のとこへ飛ばしていれば、少しだけ気配が揺れた。 ――視線の先、茶色い塊が動く。 「…あ、んたは…、…」 「はいどーぞ」 渇き切って上手く声にならないんだろう。想定内のことだったから、予め用意していた水を渡す。 ごくごくと一気に飲み干した少年は、暫くしてからぼそぼそと話し始めた。 「……あんたは自分を知れって言った。でも俺は、そんなの知りたくない」 「どうして?」 「だって、俺がだめなやつだから…、だから俺は、母様たちに捨てられたんだ…!」 「そう。それで?」 「俺はイラナイ人間なんだって、そんなの知ってどうすんだよ。イラナイから捨てられたんだ、生きてたって…」 「じゃあ死ぬ?」 「…、ッ!」 「ここにいたくない、死ぬのも怖い。―この世界でそんな甘えが許されるとでも思ってるの?」 「じゃあどうしろって言うんだよ!家族に捨てられた俺にどうやって生きろって言うんだよっ!」 「だから自分を知れって言ってんの。真実を知りたいのなら、まずは今の自分と向き合いなさい」 今の自分と向き合って自分を知るのは大事なことだ。この世界で生きていたいのなら一番初めにやるべきこと。 自分に備わった能力を知らなければ取るべき行動がわからない。 頭を使うのか身体を使うのか、得物が違えば鍛え方も違う。 薄汚れた布が頭から落ちて、少年の鋭い眼光をより一層際立たせる。 良い顔してる。これだけ食って掛かれるなら大丈夫。 あたしはにやりと笑って、少年と目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。 「ねぇ、名前は?覚えてるかわかんないからもう一度言うけどあたしは」 「…さなだ、かずま」 「真田、ね。…一馬でいっか。一馬は当分の間その名字を名乗っちゃだめだよ」 「なんでだよ」 「自分と家族が大事なら名乗らないのが吉」 「……わかった」 「ん、イイコ」 「ガキ扱いすんな」 「えー、でもガキだし?」 「お前だって俺とそんな変わんねぇだろ!」 「一馬、歳の離れたお姉さんいるでしょ?」 「いるけど、なんで、」 「そんな顔しないの。何ならお姉ちゃんって呼んでも良いけど?」 「誰が呼ぶか!お前なんかで十分だ!」 「それは残念。…あ、準備できたみたいだね。一馬もさっさと行かないと食いっぱぐれるよ」 開けたままの扉の向こうから空腹を誘う匂いが漂ってきた。 ぐう、と小さく響いた音に気づかぬふりして発信源である一馬を立たせる。 少しふらついたけど大丈夫だろう。この子は歩き方を忘れたりしない。 「部屋の位置はわかる?真っ直ぐ行った広い部屋。連れてきた時にも一度行ったと思うけど」 こくりと頷いた一馬に笑って その頭をくしゃりと撫でる。一瞬ほっとしたような顔をして、けれどすぐ嫌そうに払われた。 ほんの少し前までは当たり前のようにこの子の頭を撫でてくれる温かな手があったのだ。 それは父であり母であり姉であり、確かな安心を与えてくれる大きな手。 お前は行かないのかと、視線で問うてきた少年に先に行くよう告げて、少年が置いていった薄汚れた布を拾う。 「さんですか?」 数日前あたしを訪ねてきた彼女もこの布を被っていた。一馬に良く似た、強い眼をした女の人――。 二日後、路地の入口にこれと同じ布を被った子供が捨てられています。 ……突然やって来て何を申すのかと思われるでしょうが、どうかなにも訊かずにその子を拾っていただきたいのです。 きっと酷く怯えていると思います。最初のうちは迷惑も掛けることでしょう。 だけどどうか、お願いします。弟が、一馬がこの世界で生きていくにはあなたの力が必要なんです。 ―弟さんは何も知らないんですね? えぇ。これはわたしの我儘なんです。 あの子がわたしたちのことを恨んでも良い、憎んでも良い。だけど、一馬だけは生きていてほしい。 とても綺麗に笑う人だった。 あたしより幾分か上、こんな場所にたった一人で来るなんて随分度胸が据わった人だ。 口調や仕草に気品が漂うあの人にこんな場所は似合わない。…ま、彼女がここを訪れたのはあれが最初で最後だろうけど。 あたしは真田家の屋敷がどうなったのか知っている。彼女たちがどうなったのか予想するのも容易い。 いつかあの少年も真実を知るだろう。その時なにを思い、なにを想うのかあたしにはわからない。 ただ一つわかるのは、一馬は強くなるということ。愛を知らないこの世界で、確かな愛を与えられたのだから。 |