「あーーッ!!」


騒音の発信源へと視線を投げたのはほんの一瞬。すぐに正面へと向き直りするりと人差し指を伸ばす。


「あとこれも一つお願いします」
「まいど!お姉ちゃん別嬪だからもう一個オマケだ、ほら。今後贔屓にしてくれよ?」
「ありがとうございますー。近くに来た時は寄らせてもらいますね」


初めて立ち寄った果物屋だけど随分気前の良い店主じゃないか。
紙袋いっぱいに詰め込まれた果物を代金と交換して両手で抱える。ふわり、甘く爽やかな香りが鼻を抜けた。
気分を良くしたあたしはにこにこと愛想の良い店主に今日一番の笑顔を振り撒いてから足を動かす。


「ちょ、そこの女待ち!」


背後から突き刺さる喧しい声なんて知ったこっちゃない。
時間はたっぷりあるしもう少しこの辺りを見て回ろうかと思案しながら歩く歩くある、けない。
後ろから掴まれた腕を振り払うにはいくつかの果物に投身自殺してもらう他はないのでぐっと堪える。堪える、堪える……いい加減放せやにゃろう。
このままじゃ埒が明かないようなので仕方なく、ほんっとーうに仕方なく、わかり易く溜息を吐き出しながらゆっくり首を斜めに回した。


「…」
「……」
「………」
「…………なんか言え」


なにこの理不尽な男蹴って良い?足の指の骨砕いてやろうか思いっきり踏みつけてやろうかこちとりゃ今日はヒールだぞ。
―とは思ったものの場所が場所だ。何しろあたしは大人の女。ぐっと飲み込んでやりましょうとも。


「じゃあ言わせてもらうけど、往来のど真ん中でご丁寧に指まで差されて叫ばれた人の気持ちってわかる?すっごい不快だわほんと何なのてかあんた誰」


数メートルの距離があっても耳がキーンとしたくらいだからこいつのすぐ傍にいた人たちはとんだ災難だっただろう。
不機嫌さを隠そうともしない視線があたしにまで飛んできたんだから迷惑極まりない。こんな非常識男の関係者だと思われたなんて心外だ。他人なのに。

あたしはこれまたわかり易く眉を顰めて、険しい顔であたしを見下ろす男に瞳を尖らせる。


「……ここで何しとる」
「見てわからないかしら?それとも口で説明しないと理解できないほどその頭は残念な造りをしているの?」
「ッ、馬鹿にしとっと!?」
「理解してくれてアリガトウ。ついでにこの手も退けてくれると嬉しいわねぇ」
「…逃げる気か」
「誰から?そもそも逃げるって何?よく知りもしない男相手に逃げるも何もないでしょうに」
「それは、」
「それともあたしが知らない間に赤の他人であろうと無視をしてはならないっていう法律でもできたんですかねー刑事サン?」
「お前っ…!」
「当たり?へーえ、ほんとにそっち関係の人なんだー」
「……適当に言ったと?」


わずかに頭を傾けた男に頷く。言葉って難しいよね。同じ言葉でも複数の意味があるんだもん。
それに比べて職業なんかを当てるのはそう難しくはないのだ。あたしの知り合いじゃ当てられないやつのが少ないだろうし。


「俺んこと憶えてなか?」
「え、なに知り合いのつもりだったの?ごめんなさいねーこれっぽっちも記憶にないわ。ドチラサマ?」
「おまっ……、とことんムカツクやつたい」
「性分なもんで。で、知り合いのつもりだった刑事サンは一体どんなご用件であたしを呼び止めたんですかねー」
「―数年前の未解決連続殺人事件。犯人の通称は切り裂きジャック」
「…あー、そんな事件もあったわねえ。凶器が刃物だっただけで猟奇的でも売春婦が狙われてたわけでもないのにご立派な名前付けられちゃって」
「警察は犯人像を男に絞っとったばってん、俺は女や思っとう」
「女?じゃあジャックじゃなくてジルじゃない」


本場の切り裂きジャック事件も犯人は女性という説があって、確か切り裂きジルと呼ばれていた筈。
頭の片隅に仕舞われていた知識を引っ張り出して口にすれば未だに腕を掴んでいる男の眼鏡の奥が鋭く光った。


「ジャックでもジルでもなか。や」
「……ドチラサマ?」
「自分の名前も忘れたっちゅうんか?」
「まさか。でも刑事サンが言うとあたしは別人でしょう?」
「俺はあの日から一度もお前ん顔を忘れたことなか…!」
「あの日っていつよ?こっちは記憶にないんだって」
「しらばっくれようったって無駄たい!あん時お前がカズさん脅しとったの俺はこんの両目で見たっちゃ!」


掴まれた腕がギチギチと痛む。力が緩んでる内に果物を犠牲にしてでも振り払っておけば良かった。
あたしは大きく息を吐き出して、わなわなと唇を震わせている犬を呆れたように見やる。


「…思い出した、あんたカズのペットね。躾がなってないのは飼い主の力不足かしら?」
「カズさんはばりすごか人ばい!」
「あーそう」


ペットは否定しないのかよ。両手が塞がってなければ額を押さえたいくらいだ。つまり、メンドクサイ。


「で、なに?個人の判断で上の許可もなくあたしを容疑者として連行するつもり?」
「調べれば絶対証拠ば出よる」
「別に付き合ってあげても良いけどさ、知ってる?若くて優秀でついでに顔も悪くないやつはどこにいたって嫉妬の対象なの」
「…」
「出る杭を打ちたくて打ちたくて堪らないやつらはいつだって金槌片手に目を光らせてるでしょうねーえ」
「……」
「ま、力もない部下が勝手をした尻拭いをするのは上司の役目だし?そうなっても責任感じることはないと思うよ」


にっこりと笑みを向ければやがて腕の拘束が解かれる。あー痛かった。
もう行って良いだろうかと表情を変えずに首を傾げることだけで問おうとするも、あまりにも情けなく両耳を垂れ下げた犬の姿に苦笑い。


「これあげる。お勤めご苦労サマです」


紙袋の一番上に載っていた甘酸っぱい香りを放つ果実を一つ大きな手に握らせる。
苦い虫(それも一匹じゃない)を噛み砕いたような顔をした男は、眉間に深い皺を刻んでまだ熟していない林檎を見つめながら低く低く呟いた。


「……俺はお前が好かん」



目はないとりながら
「安心してよ。あたしも好きじゃないからさ」