「桜庭財閥の御曹司サマがこんなところに何の用?」
「止めろよその他人行儀な言い方」
「だってさくちゃんもうすぐ昇進でしょ?そろそろ敬った方が良いかと思って」
「なんで内部情報知ってんだ。まだ外部には洩らしてないんだぜそれ」
「あたしに隠し事しようなんざ一億光年早い」
「一生無理ってことじゃん」
「そーとも言う」


からりと笑えば御曹司サマの苦笑いが返された。
懐かしい表情に少しだけ頬を緩めて、立ちっぱなしの彼に向かいのソファーを手で示す。


「知ってると思うけどお茶はセルフサービスだから。ちなみにあたしはアップルティーの気分」
「客に淹れさせるのかよ」
「あら、さくちゃんて客だったの?」
「じゃなきゃ来ねえよ」
「昔の知り合いとは言え安くはしないから」
「桜庭が値切るわけねーだろ」
「さっすが五本指に入る大財閥!それで、本日はどういったご依頼で?」


緩みきっていた身体に力を入れて姿勢を正す。 といっても足は組んだまま、ついでに膝の上にこれまた組んだ両手を乗せる。
仕事モードの切り替えなんて適当だ。誰が相手だろうとあたしはあたしのスタイルを崩すつもりなんてない。
視線の先、見るからに高級そうなスーツを着こなした彼は、今までのちょっとだるそうな雰囲気を一掃してきりっと眉を上げる。
あたしとは正反対。オンオフの切り替えはしっかりするタイプらしい。

気を抜いたら欠伸が出そうな堅苦しい上に長ったらしい説明に本気で嫌気が差した頃、漸く待ちに待った言葉が発せられた。


「桜庭からの依頼は以上だ」
「ふうん」
「事前に確認しておきたいことはあるか?」
「んーそだな、取り敢えず一つ。その依頼は誰に宛てたもの?」
に」
「それはあたしに?それともここに所属しているに?」
「……」
「ついでにもう一つ。依頼人は桜庭財閥なのか、さくちゃんなのか」


ひとつふたつ。組んでいる指を一本二本とぴんと伸ばす。
背筋を伸ばして姿勢良く座っている御曹司サマは、あたしの問いに少しだけ眉間に皺を寄せた。


「ま、最後の質問の答えはどっちでも良いんだけどね。てか二個目を答えてくれれば答えなくても良いよ」
「…それは、」
「あたし個人からさくちゃんへのアドバイスとしては、後者は選ばない方が良いってこと」
には頼むなってことか?」
「そう。ここには足を踏み入れないのが吉」
「来ちまったけど」
「ここはの場所以前にあたしの場所でもあるから大丈夫。特別に誤魔化してあげるよ」
「別料金で?」
「今ならアップルティーで手を打とうかしら」


淡い香りを放つカップに指を掛ける。
一人じゃお湯もまともに沸かせなかったお坊ちゃま(見事な箱入り)が、随分立派になったことだ。
まあ、小さかったお坊ちゃまにあれやこれやと叩きこんであげたのは他でもないあたしだけど。
数ヶ月とはいえ、彼の有名な桜庭財閥の時期当主があんな場所で生活していたなんて表の世界の誰が知っているだろうか。
知っていた人はいたけれど、今はもう本人だけか。口ばかりが達者で何もできないちびっこの姿に口許が歪む。


「……。俺個人としては、に頼みたい。だけど、まだ俺の力じゃ駄目なんだ。この件の決定権が俺にはない」


苦渋の決断なんだろう。ぎりっと噛み締められた唇に血が滲む。
そんな男を見ながらあたしは吐き出しそうになった溜息を紅茶とともに飲み込んだ。
―だって、答えはわかってたから。
御曹司サマを見習って最後くらい真面目にやろうかな。体勢は変えずに口調だけを改める。


「わかりました。桜庭財閥時期当主、桜庭雄一郎様からのご依頼をわたくしがお請け致します」
「成功報酬で良いんだな」
「勿論。でも依頼料は別だから帰る前に払ってってね」


桜庭財閥からの依頼はあたし個人ではなかったから、彼がここを訪れたことを誤魔化す必要はなくなった。
用が済んだなら早く帰れ。犬を追い払うように手を払う。
けれどもどうしたことか、手入れが行き届いた艶やかな髪は揺れることなく、立ち上がる気配すらない御曹司サマ。


「ここは天下の桜庭財閥の御曹司サマが長居をするような場所じゃないよ」
「…他人行儀」
「だって他人でしょ?」
「相変わらず冷てえの。同じ屋根の下で過ごした仲なのに」
「ここがあの家だったらもうちょっと優しくしてあげたかもね」
「帰んねえの?あいつら必死で捜してるって噂だぜ」
「今のあたしの居場所はここだから」


にっこりと微笑めばやっぱり御曹司サマは苦笑い。
女性の顔見て苦笑いだなんて、桜庭財閥では紳士としてのマナーは教え込まれないわけ?
そんな馬鹿げたことを思いながら左手で角砂糖を掴む。そういやどっかの有名な跡継ぎが突然消えたって噂があったっけ?
放り込んだ砂糖が口の中で溶ける前に噛み砕く。じわりと広がった甘さとざらりとした舌触りに顔を歪めた。


「当たり前が通じないのが当たり前」


ぽつりと呟かれた声に視線を正面に戻す。俯いた頭がゆるりと持ち上がり、ゆるりと瞳が揺れた。


「……あら素敵。一体誰の言葉かしら?」
「随分昔に俺が世話になった女」
「美人だった?」
「忘れた」
「それは勿体ない。…ねぇさくちゃん。理想と現実を一致させるのは難しいね」
「あぁ。……でも俺はまだ理想を捨ててない」
「その手は別の色に染まってしまったのに?」
「汚れた手でも守れるものはある。汚れないと守れない者だってある。―そうだろ?
「…さっすが御曹司サマ。言うことが違うねー」
「そーやってすぐ茶化す。ほんと相変わらずだなお前」
「見た目も中身もいつまでも若いままだからさ」
「ばーか。…でも、ちょっと安心した」
「何が?」
「俺はまたあの場所で笑ってるに会いたい」
「……、あたしは色んな物に興味津津で、面白いくらい周りに振り回されてくれるさくちゃんが見たいよ」
「見たいも何も率先して振り回してたのお前だろ!」
「えー、さくちゃんが勝手に回るんじゃん」


鼻息荒く立ち上がったさくちゃんには笑い声をプレゼント。
さらりと靡いた艶やかな黒は昔と変わらないのに、どうして、……止めた。全部今更だ。

あの場所を選んだのは彼。そして、いばらの道をたった一人で歩くことを決めたのも、彼。

……靴くらいはあげたかったな。時間だからと背を向けた男に気づかれないように息を吐く。
それから、最初に顔を見た時から気になっていたことを漸く音に乗せた。


「ねえさくちゃん、もう前髪は伸ばさないの?」
「…昔世話になった女に、前髪が長いと色んなものを見落とすって言われたからな」
「その人はなにも切り落とさなくても前が見えるようにって何かくれなかった?」
「ッ、……桜庭財閥の時期当主が、ぼっろいカチューシャで前髪上げるわけにはいかねーんだよ」


ぱたん。渇いた音の向こうに消えた背中は、少しだけ震えていたかもしれない。



描いたは今何処?
「折れたクレヨンでも色は残せるんだよ」