あの体育の時間以来、わたしは時々若菜くんに話しかけられるようになった。 時々といっても、それまでが全然だったから大きな変化だ。 それは消しゴム貸してとか、昨日の宿題やったとか、そういうレベルのものだったけど、それでもわたしは嬉しかった。 日常の中に若菜くんが戻ってきたのだ。昔と全く同じというわけじゃなくても、わたしと若菜くんに繋がりが出来たみたいで嬉しい。 「最近嬉しそうね」 「え?」 「いつもに増して顔中緩みっぱなし」 「そうかな、自分では普通のつもりなんだけど」 お弁当の時間、ちゃんに言われていそいそと頬っぺたを触ると笑われた。 単純なわたしは思考回路がそのまま表情に出やすいらしい。自分ではあまり自覚がないのでわからないけれど、ちゃんが言うならそうなんだろう。 尚も確かめるようにぺたぺたと頬を触っていれば、ちゃんはまた笑った。 「嬉しそうならいいの。のその顔、あたし好きよ」 「…わたしも、ちゃんの笑った顔 大好きだよ」 わたしの言葉に嬉しそうに笑って、わたしの頭を撫でてくれるちゃん。あぁ、すきだな。こうやって撫でられるのは大好きだ。 きっとわたしの顔はだらしなく緩んでいるんだろう。その証拠に、近くに座っていた若菜くんが呆れたような顔でくるりと半身だけで振り向いた。 「お前らいつもそんなこと言い合ってんのか?」 「え?」 「なに若菜、羨ましいの?」 「べっつにー。ただ、俺も言われたいなって思っただけ」 「若菜くん大好きー!」 「結婚してー」 「ヤローに言われても嬉しくねぇっつーの!」 「馬鹿の集まりね」 「ちゃん、」 「ほら若菜、さんに呆れられてっぞ」 「俺だけじゃねーし。な、!」 「あ、うん」 「さんは優しいなー」 若菜くんの言葉に、若菜くんと一緒にお昼を食べていた男子たちが一斉に騒ぎ出す。 若菜くんはクラスのムードメーカーなので、若菜くんが喋ると色んな人がそれに反応するのだ。 クラスにいてもいなくても同じようなわたしだとこうはいかない。こんな風に、色んな人に好かれる若菜くんはすごいと思う。 若菜くんやちゃんに話しかけるついでにわたしにも声を掛けてくれるから、何だか得した気分になってしまった。 にこにことご機嫌なわたしは、喜んでいるわたしとは逆に、悲しんでいる人がいることに気がつかなかった。 「結人って最近さんと仲良いよね」 その声が聞こえたのは、本当に偶然だった。あの雨の日と同じ下駄箱で、あの日とは違って靴を履き替えようとした時に聞こえた声。 「そーか?別に普通だろ」 「でも今までそんなに話してなかったじゃない。…もしかして、さんのこと好きなの?」 どきりと心臓が跳ねる。ばくばくと騒ぎ出した心臓を両手でぎゅっと押えて、早く終わってくれと目を閉じた。 お願いだから、早く行って。わたしがいる場所の裏側、隣のクラスの下駄箱の方から聞こえてくる声に、このままわたしの存在に気がつかずに歩き出してくれと願う。 「別に、そんなんじゃねぇよ」 「…ほんとに?」 「だけはあり得ないから。つか俺今お前と付き合ってんじゃん、疑うなっつーの」 徐々に遠ざかって行く声は、もう何を言っているのかわからなかった。止まってしまったわたしの頭では、それ以上理解できなかったのだ。 ほんの少し話せるようになったからって、何を期待していたんだろう。自分で自分が恥ずかしい。 下校のチャイムが鳴るまでわたしは靴に手を掛けたままぴくりとも動けなかった。
望みさえ手放した
欲深いわたしは、これ以上の関係を望んでいたのかもしれない |