こんな風に人物に惹かれたのは初めてだ。
描きたい と思った。この人を描きたいと、強く強く願った。



冷たい



「あれ、だれ」
「え?……あぁ、真田だよ。D組の真田一馬」
「さなだかずま」
「そう。てか知らなかったの?アイツ結構有名だよ。人付き合いは微妙だけど顔は良いし、何よりサッカーが凄いらしいから」


続く説明はただのBGMとして周りを流れる。彼に纏わる情報などどうでもいい。あたしが知りたいのは、そんなことじゃない。
さなだかずま
口の中でもう一度その名を反復してしっかりと飲み込む。瞳の奥がじりじりと焦げるように熱い。
かしゃりかしゃりとシャッターを切るように数回瞬きを繰り返し、彼の姿をしっかりと焼きつける。
後はもう、今にも暴れ出そうとしている右手の欲求に身を任せるのみだ。

数分のうちに真っ白だった紙が4Bの鉛筆の黒によって犯される

小指から手首にかけてのラインや親指の腹も同じく黒に染まっているだろう。
隣から驚いたような声が降ってきたのを合図に顔を上げると、からんと音を立てて鉛筆が滑り落ちた。


が人物描くなんて珍しい」


あたしもそう思う。風景や動物を描くのは好きだが、人物を描くのは嫌いだった。
人物をテーマにされるといつだって描きたいという欲求がしゅるしゅると萎んでしまうのだ。
どくりどくりと脈打つ右手をじっと見つめる。それから、モノクロで描かれたさなだかずまを見る。
いつになく荒い。様々な角度のさなだかずまのうち、正面を向いてる彼の、何かを訴えるような瞳と目が合った。

まだまだ暴れたりない

それは彼だけでなく、あたしも同じだ。
いつの間にか熱を失い冷たくなった右手は少しだけ震えていた。


「ちょっと行ってくる」
「もうすぐ授業終わるよ」
「うん。でも、行かなきゃ」


隣に座ってスケッチをしていた友人に声を掛け立ち上がりグラウンドへ向かう。
さっきまで行われていたサッカーの試合はもう終わっていて、更に教師から授業の終わりを告げられたのか、中央の固まりが少しずつ崩れていく。
これは蟻だ。蟻の群れだ。
纏わりつく視線を受け流し、たった一人の人間だけに全神経を集中する。

「さなだかずま」

零れ落ちた名前は、雑踏に紛れることなく彼の耳に届いた。



*



たかが学校レベルのサッカーに全力を尽くすなんて馬鹿げてる。
いつもならある程度手を抜くけど、何故か今日は違った。なんとなく全力で駆け回りたかった。
試合なんて呼べないレベルの試合だったけど肌を滑る汗は気持ちが良い。冷える前にさっさと着替えようと、口々に声を掛けて行くクラスメートを適当にあしらって流れに乗って歩き出す。

だから、その声を拾ったのは偶然だった

聞き覚えのない音で名前を呼ばれて顔を上げると、見覚えのない女と目が合う。
クラスメートではない。同じクラスになったこともないと思う。
眉間に皺が寄ってしまうのは無意識だし、日頃からつり上がっている目じりが更につり上がったのだって無意識だ。


「さなだかずま」
「……そうだけど、」


お前は誰だ。少しだけ首を倒すとその旨を汲んだのか「2-A」と、淡々と告げた。
なんか少し親友に似てる。表情からも声色からも感情が読み難い。別に知りたいわけでもないけど。
告げられた名前を脳内で再生しながら記憶と照らし合わせるが、やっぱり知らない名前だ。改めて顔を見て、初対面だと頷く。
感情は読めない。だけど睨みつけるように俺を見るその態度に、今度は意識的に眉間に皺を寄せる。
用がないならもう行っていいだろうか。黙りこくったの横を通り過ぎようと一歩踏み出す。


「近づいていい」
「…は?」
「さなだかずまの世界に、近づいてもいい?」
「……意味わかんねぇ」
「わかんなくていいよ。でも『いい』って言って。そしたら後は勝手にやる」
「…」
「邪魔はしないし表面上は近づかない。ただちょっとだけ、その世界に入れてくれればいいの。あたしにわけてくれればいいの」


不思議と拒絶の言葉は浮かんでこなかった。気づいたら頷いて、の隣を通り過ぎていた。
すれ違うその一瞬に、ほんの少しだけ触れた手とぶつかった視線の温度差に知らず知らずのうちに息を零す。
熱の引いた体と触れた手の温度は同じだった。



*
*



「前から思ってたんだけどお前って冷え性?」
「そうでもない。別にふつー」
「じゃあ何でこんなに冷てぇんだよ」
「心が温かいから、ってのが一般的考え」
「その場合だと俺の心は冷たいってことになるから却下」
「真田はお子様体温だもんね」


左手にはハンバーガー、右手にはの手。通い慣れたファーストフード店の一角でこうして向き合うのは初めてではない。
右手には4Bの鉛筆、左手には真田の手。顔を向き合わせる形で座っているにも関わらず目が合うことは稀に等しい。
共通点など一つもなく学校内で言葉を交わすこともないこの二人が、時折こうして一緒にいることを知っている人は片手で足りる程度だ。


「そういや結人が今度の試合に連れて来いって言ってた」
「…茶髪と黒髪どっち」
「茶髪。黒髪は英士」
「行ってもいいけどルールわかんない」
「絵描いてれば」
「描き始めると他のこと何もできなくなるけどいいの」
「別に。が応援しなくても勝つからいい」
「……じゃあ行く」
「おう」


二人の関係を表す言葉を見つけるのは難しいし、他人にどう思われたところで当人たちは気にもしないだろう。
一緒にいる必要なんてなかったのにとても自然な流れで一緒にいるようになったのが不思議でならない。
考えても答えが見つからないので、も真田もそのことに関して考えるのはとうに放棄している。

近くにいるだけで交差することはない

変化を恐れているわけでも望んでいるわけでもないけれど、今のままが心地よいというのは違うことない事実。
もしもこの関係を表す言葉が見つかったら、自然と答えも見つかるかもしれない。
ふと目が合った瞬間に笑顔が広がることはなくとも、互いの心を揺らすから、



「おなかすいた」
「ポテト食うか」
「食う」



どこまでも駆け抜けて行ける と思った。焦げる前に冷ましてくれると、深く深く感じた。
こんな風に他人に惹かれたのは初めてだ。