いつだってぼくらは特別になりたくて足掻いてるんだけど、
特別ってものは手に入れた途端もう特別ではなくなってしまうから、結局ぼくらはずっと足掻き続けるしかないんだ。
たとえ身体を、心を壊してしまっても、盲目なぼくらは気づけないんだ。



「あんたといると寿命が縮む。―だから、責任とって傍にいなよ」



真っ白い紙を、見るのがこわい。はやくぐちゃぐちゃにしなくちゃ。はやく、はやく。
逃れるように押さえ付けた左手が紙の上で震えている。がちゃん!手探りでペンを引き抜いた右手が鉛筆立てを倒してしまった。
はやく、はやく。黒いペンでこの白を汚さなくちゃ。―「えいし」。


「ちゃんと呼んでっていつも言ってるのに」


困ったような声とともに、するり、
私の手から半分以上が文字で埋まった紙を抜き取られる。
行き場を失くしたペン先が机に小さな黒を残した。


「何だかんだ、肝心なことは言えないやつだってわかってるつもりだけど、ぐちゃぐちゃでもいいから言ってくれないとわからないよ」


―あぁ、ヤだな。ヤなのに。
そんな顔されたら、ね、どろどろに甘やかされたくなっちゃうよ。 「えいし、えいし」。

たぶん、ぜったい、あとで思い出して、消えてなくなりたくなるのに、一度名前を呼んでしまったら、もう、だめだ。
やんわりとペンを奪われて、代わりに手のひら。
反対の手が、とんとん、 全部吐いていいよ。 私の背中をやさしく撫でるから、―「えいし」。

真っ白い紙をその名で埋める代わりに、「えいし」。
舌で転がして、耳で掬って、私の中をいっぱいにする。いっぱいに、するの。

だけどほんとは、気づいてた。
真っ白い紙を埋める度に、音にする度に、靴底みたいに、どんどん、何かが磨り減っていくんだって。
磨り減るのは私一人じゃないんだって。


「しろ、くん」


かなしみはとても甘い。キャラメルみたいにベタベタと、くっついて、絡んで、


「しろくん、ごめんね。ごめんね」


可哀想な甘さにとらわれて、罪悪感を隠してしまう。


「謝らないでいいよ。だいじょーぶ、だいじょうぶ」


泣きじゃくる子供をあやすようなこの声が、手が、しろくんが、
私でぐちゃぐちゃに汚されるのを、だめだってわかってるのに、ヤなのに、やめられない。―「えいし」。

だってこわいんだよ。私の中からえいしが消えてしろくんでいっぱいになっちゃうのはこわいから、
しろくんの想いと向き合うのがこわい。見たくない。ごめんね。 「えいし」
はやく、はやく。
キャラメルに溺れて、ぐちゃぐちゃに、どろどろに、この×××を消さなくちゃ。



「もっと欲張ってよ」



優しい気持ちなんてずっと昔になくなった。
残っているのはただ、執着とか、依存とか、もっとずっとどす黒いコーヒーの残りカスみたいな。
甘さなんてどこにもない、苦くて、苦くて、


「じゃあさっさと別れれば」
「やだね。手放すなんて考えらんない」
「…それって好きなんじゃねえの?」
「違うよ。ただ、ぐちゃぐちゃに痛めつけて泣かせてやりたいだけ」
「あんたほんと大概にしろよ」


言葉とは裏腹にその目にはどこまでも深い心配が滲んでいて、思わず眦を下げれば今度は強い視線に射抜かれた。
おお怖い。肩を竦めれば鋭い舌打ち。


「…俺はお前らのことよくわかんねぇけど、だからこそ、やっぱお前はを好いてるように見える」
「しつこいな。違うって言ってんだろ」


話にならないと顔を逸らしても、その先にまた面白くない光景が広がっていて眉を寄せる。


「好きじゃないって言い張るならせめて、さっさと解放してやるくらいの優しさ見せろ」
「好きじゃないんだから優しくしてやる必要なんてないだろ」
「ガキか」
「お前、誰に物言ってんの?」
「…頼むからちゃんとしてくれ」
「なに、今日は随分食い下がるね」
「いい加減見てらんねえ。わかってんだろ」
「知らないよ。他人の気持ちなんてわかるわけがない」
「あんた、いつからそんなんになっちまったんだ」
「さあ?元からじゃない?」
「自分が今どんな顔してるかもわかんねえのか?」
「…お前は痛そうだね、柾輝」
「…誰の所為だ」


ぐっと、何かを堪えるように唇を結んだ柾輝は、真っ直ぐ前を見ると重々しく言葉を紡ぐ。


「良いか、優しく出来ないならもう止めろ。もう良いだろ。いつまで自分のこと傷付けりゃ気が済むんだよ」
「自傷癖なんてないけど」
「、」
「迎え来てるけど時間良いの」


被せるように吐き捨てて窓の外を見遣れば視線を追った後に立ち上がる。


「いいよ、片しとくから早く行ってあげな」
「…悪ぃ」
「今度はもっと楽しい話しようぜ」
「そう思うならちゃんとしてくれ。…こんなこと言わせんなよ」
「可愛い彼女によろしくね」


貼り付けたみたいな笑みに苦々しい顔をした柾輝は、結局何も言わずに店から出て行った。
――よし、


「お前は帰るなよ」
「…」
「舌打ちすんな」
「あんたもさっきしたじゃん」
「俺は良いんだよ」
「うわ、横暴」
「お前、ほんと誰に物言ってんの?」


ぷいっと顔を背けても追い掛けるように伸びてきた手に無理矢理元の向きに戻される。
首痛いんですけど。無言の訴えは楽しげな笑みで流された。


「はは、不細工」
「死ね」
「その上口が悪い」
「だからさっさと別れればって言ってんじゃん」
「手放す気はないって言ったけど?」


あたしの頬を両側から押し潰していた右手は、最後にするりと唇の下を撫でて離れて行く。
――結局いつも、この男はあたしに甘い。


「馬鹿じゃないの。あんた顔は良いんだから、あたしみたいなのに構うのもう止めれば?」
「誰かさんが拗らせた初恋を終わらせるの見届けたら止めてやるよ」
「…あんたってほんと腹立つよね」
「お互い様だろ?」
「だいっきらい」
「知ってる。―でも、俺は好きだよ。


「嘘吐き」



きらい、きらい。
だいすきなひとのすきなひと



ぼくらはそれぞれ自分の世界で生きていて、それが偶然重なった時に、こうして君と並んで歩いたり話をしたりしているけれど
――勘違いしないで。それは、ぼくらが同じ世界で生きていることにはならないから。
だからね、君が見ているものと、ぼくが見ているものは、同じであっても、同じではないんだよ。