かえりたい

ぽつり、呟いた彼女の心を僕は知らない。
どこに? 言葉を返すのは簡単だ。
だけどもし僕の思う帰りたいと彼女の言う かえりたい の意味が違えば零れた音は重ならず不協和音となって胸を刺すだろう。

僕がこの世で一番恐れているのは からっぽ だ。
なにを注いでも、何度とじ込めても瞬く間に消えてしまう。
それこそ最初から空だったように。まるで とける ように。

実に厄介な魔法だと思う。
そんなもの信じてもいないのに、信仰すらしていない神とやらに祈るのと似ていて、遠い。
――届かないなら、僕が作り出した音が他でもない彼女に響かないのならいっそ、最初からなにもなければいいのだ。

恐れているのに望んでしまう矛盾。からっぽ、  。

行こっか?
前よりもずっと遠くを見つめていた透明な瞳がようやく僕を映す。
彼女の世界に住まうことを許された僕は少しだけからだを震わせて当たり前のように伸びてきた手を掴む。
僕よりもずっと小さな手。容易く折れてしまいそうな、儚い温度。

込み上げてくるいくつもの声を文字通り飲み込んで重ねた手にそっと力を込めれば、
小さな手が僕の倍の力で きゅっ と握り返してくるものだから、
予想外な温かさにじわじわとからだの真ん中からなにかが溶け出すような妙にくすぐったい感覚を覚えた。

かえりたい場所は見つかった?

驚くほど穏やかな声が鼓膜を揺らす。
目があった彼女はそれはもう穏やかな顔でわらっていた。――ああ、そうか、
あの言葉は他でもない僕のものだったのか。
臆病で強がりな ぼく の代わりに、彼女が吐き出してくれたんだ。

気づいてしまえばもう、答えは出てる。

一度だけ、更に倍の力で重ねた手を握りしめる。
折れそうな小さな手は、だけれど折れそうな素振りすら見せなかった。
その事実がすべてで、これだけがあればいい。
からっぽに溶け出した温度が確かな音となって僕の中に響いた。

ふ、と吐息が落ちるように抜けた力が瞳を和らげ、弛みきった目じりから透明な道を走らせる。
ぼやけた視界の中で微笑う彼女がいとしくて、僕はただ、涙を拭う代わりに繋いだ温度にキスをした。


ぼくらの融解温度


からっぽ は とけましたか?



思い出になんかしないでよ

どきり、とした。まるで自分に言われているようだったから。
何気ないふりで振り返れば顔を強ばらせた女の姿。
ぼくはまたはっとして思わず目を瞠る。
かちりとぶつかった黒い瞳から音もなく透明なしずくが流れた。

なに?

女は不可解そうに眉を寄せ少し首を傾ける。無理もない。
見ず知らずの男が自分の顔を見て固まっているのだから。
だけどぼくはそれに応えられずに、彼女の頬を走る透明な道にただただ目を奪われていて、

だってまさか、こんな風に涙を流すやつがいるなんて思わなかったんだ。
声は水を含んでなどいなかったし、表情だって至って普通。
かなしい とか くやしい とか、そんなものは窺えない。
まるでどこかから切り取ったような、他人の涙を代わりに流しているような、そんな違和感すら覚えてしまう。

なんですか?

今度は空気を揺らした言葉。
淡々とした無機質な響きは少し前にぼくを振り向かせた声と同じで、ぼくは不躾にも改めてまじまじと女の顔を見る。
涙を拭う素振りも見せない彼女は、そんなぼくになにを言うでもなくただ静かにぼくが口を開くのを待っているようだ。

     。

漸く紡いだ言葉。女は驚いた素振りも見せず一度だけ空を見上げた。
傾いた水槽からまた一つ水の道。

そのあとは、すべてがスローモーション

すぐ横を通り抜ける女に一拍遅れて振り返る。
意味もなく伸ばしそうになった手は中途半端な長さで行き場を失くしたように指を畳む。
やがて目で追うこともできなくなったところで、ぼくはゆっくりと空を見上げた。

こぽこぽ、耳の奥で水の音。
誰にも気づかれぬよう沸騰する、心の音
ぼくは静かにその音に耳を傾けながらいなくなった女の余韻に浸る。
網膜に焼き付いた刹那の表情を忘れぬように、瞬きすら惜しんで。
乾き切った瞳にぽつり、「雨」。――空の涙を閉じ込めるようにぎゅっと瞼を結ぶ。
開いたときにはもう雨は止んでいた。


サイレントレイン


思い出になんかしないよ。



なんで泣いたの?

これはまた、容赦がない。
悪びれもなくさらりと告げられた言葉に苦く笑う。
どうしてこの男はこうもあっさり痛いとこを突くのか。
見て見ぬふりの優しさというか心遣いというか、大人のマナー的なものは備わってないのだろうか?
全く残念である。
頭の中で言葉を並べてみても口にしないあたしは多分、なにを言っても逃がしてもらえないことに気づいているのだ。
…悔しいけれど。
目の前の男は黙り込むあたしに眉を顰める。
なんだかあたしが悪いことをしたみたいじゃないか。あ、溜息までつきやがったひどい!

ねえ、なにか言いなよ。

終いには呆れたような声。
あたしはまた苦く笑って、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。―――。
なんだか言い訳じみた台詞を並べてしまったなあ。そんなつもりはなかったのに。
口の端から重たい吐息が逃げる。

こんなときこそなにか言ってくれればいいのに。
ちらりと見上げた男の表情を読むのはあたしには高度すぎる。
もいちど吐き出しそうになった溜息は、だけれど伸びてきた手に塞がれた。あ、冷たい

ゆっくりと唇をなぞるように撫でる指先をされるがままに見下ろして、
再び見上げた視線の先に映り込む淡い温度。
……ずるいなあ。
そうやって、綺麗に微笑わないで。
じわりじわりと滲み出す心に釣られるように視界が揺れる。
目の前の男はそんなあたしを気にも留めないで、惜しむように離した指先をぱくり。そっと唇で触れる。

……ほんとうに、ひどいひとだ。
そんなことをされたらあたしが泣くって知っているんでしょう?
音もなく落ちた熱は冷たくて、だけどあたたかかった。


溜息の行く先


そうやってきみはあたしのくろい感情を容易く食べてしまうんだ。