「―ッしんぞ、やぶれそう」


引き攣った口の中は砂漠のように渇き、短い息を繰り返すあたしは宛ら犬のよう。
一体どれくらいの距離を走ったんだろう。運動不足が祟ったなこりゃ。ガクガクと震える膝に鼻から細い音が抜けた。

(だっさ、)

だってほんとうは、冷静な部分ではきちんと理解していたのだ。
あたしが全力疾走し続けられる距離なんてたかが知れてる。この程度の距離で音を上げるなんて我ながらみっともなくて笑えるよ。

苦しくて苦しくて、助けを求めるようにじわりと滲んだ涙をカーディガンの袖で乱暴に拭えば、ひりりとした痛みが目じりを走った。


「、たい」


逃げ出した言葉は殆ど音には成らず、自分でもわからない程に絡まっている。
ぎちぎちと音を立てる両手が握り締めているのはフェンスじゃなくてあたしの心臓なのかもしれない。
痛くて、苦しくて、みっともない。錆びだらけ。


「おでこに網目付くよ?」


かしゃん、小さな悲鳴に被さった声は今まさにフェンスへと押し付けた額の未来を案じてくれているようで随分軽薄な響きだった。
日頃の倍は重く感じる頭を持ち上げる気力は未だ戻っておらず、けれど呼吸は幾らか落ち着いたのでゆるゆると唇を持ち上げる。


「笑っていいよ」
「笑って欲しいんだ?」
「どうだろ」
「どうなの?」
「わかんない」
「じゃあ俺はもっとわかんない」


不思議な声だ。拗ねているようでいて、弾んでいるようにも聞こえる。
気になって視線だけを持ち上げても穴だらけの視界で捉えられたのは 薄汚れたスニーカーと草臥れたスラックスくらいで、それより上は自分の頭が邪魔で見ることは叶わない。

(…まあ、見えたところで知ってる顔のが少ないけど。)

同学年だとしても記憶に引っ掛かっている顔が何人いるか。名前と一致する人物は更に少ない。
この無駄に高いフェンスが分けているのは敷地だけではないのだ。
男女共有の特別棟や合同のイベントがあっても積極的に向こう側と関わる意思がなければ精々この程度だろう。


「もしかして喉渇いてる?」
「なんで?」
「向こうから凄い勢いで走って来るの見てたから」
「あ、そ」
「飲む?」
「何を?」
「コーラ」
「…炭酸は勘弁」
「えー。じゃあ何ならいーの?」


不満気な声に「水」と答えてから、だからどうするんだと思う。かしゃ。これがある限り受け渡しは無理だ。
そもそも水なら少し行ったところに水道あるし。
だけど声の主はあたしの返事に「ちょっと待ってて」と足音を遠ざけた。…意味わからん。

(…だっさ。)

あの全力疾走を見られてたのか。さぞ醜いフォームだっただろう。
一人になったところで掴んでいた手を放し、フェンスに凭れたままぐるりと向きを変えずるずると体重を下に落とす。 あ、カーデ捲れたかも。スカートが汚れるのも気にせず地べたに座り込んで立てた両膝に顔を埋めた。


ひたひた、ひたひた、
ぎゅっと目を瞑っても爪先から伝ってくる感情はまずくるぶしを撫で、膝、おへそ、胸―とゆっくりゆっくりあたしを浸す。 肩から首へ、喉がこぽりと鳴って、こぽこぽと耳元で溺れる音がしたと思ったら、がしゃん、頭の上の方で甲高い悲鳴。


「パンツ見えるよ?」


はっと肩を揺らし、額を膝から浮かせると真上から降ってきた声にまず最初に口の端から呆れたような息が零れた。


「別に女子に見られても問題ない。ごめんとは思うけど」
「男の先生がそっち通るかもしんないじゃん」
「近くまで来ないと見えないでしょ。てか、なに?」
「水」
「…は?」


未だ頭は重いけれど今度こそしっかり持ち上げて首を回す。
視界ににゅっと映り込んだペットボトルの中で、たぷん、透明な液体が揺れた。


「…どしたの、それ」
「水道で入れてきた」
「……もしかしてコーラ入ってたやつ?」
「三回ゆすいだからだいじょーぶ」
「あー…そ」
「はい。飲んでいーよ」
「どうやって?」


揺れる液体を見つめたまま告げれば、返事の代わりにペットボトルがくるりと方向転換し、 キャップが閉まったままの飲み口が網目にぐっと押し込まれた。…成程。
全体の約三分の一。細くなっている部分だけが網目からこっちに押し出され、これなら飲めないこともない。


「…」


もうどうにでもなれ。諸々の葛藤の末にキャップを開け、両手でペットボトルを支えて 水平になっていたのを少しずつ斜めに傾けてゆっくりと下りてくる水を確認しながら唇を寄せた。


「美味い?」
「微妙」
「あ、なんか今ハムスター思い出した」
「どーゆーこと?」
「ケースん中のハムスターが水飲んでるのってこんなじゃね?」
「…残念ながら頬袋はないよ」
「えー」
「ちょ、ばかっそんな傾けんな濡れる!」


慌てて身を引いて、急に勢いが増した所為で唇から零れた水を袖口で拭い、「ふはっ!ごめんごめん」。と 意味を成さない謝罪を告げる人物を睨み付けるべく顔を上げる。

ばちっと音が聞こえる程、一直線に視線が絡んだ。


「……誰?」
「今更?」


仕方ないじゃないか。零さないようにと視線を固定していたので、はっきり顔を見たのはこれが初めてなんだ。

(あ、泣きボクロ。)

穴だらけの向こう側でにかっと細められた目の下、ぽつっと小さな印が少しだけ持ち上がる。
指先が触れたそうにピクリと動くものだから慌てて視線を解いた。


「…水、ありがと」
「いーよ。ただの親切でやったわけじゃないし」
「……どーゆーこと?」
「ほら、あれ。下心」
「……、…なんか奢れとか?」
「それいーね!でも違くて。もうちょいこっち寄って」


眉間に力が入ってしまうのは仕方ないだろう。
疼き始めた警戒心にもう少し様子見だと指示を出し、座ったままじりじりと先程と同じくらいまで距離を詰める。


「うんストップ」
「…何なの?」


少しだけ頭を傾けると、細長い指が網目を越えぴたっと額に触れた。
優しく撫でられるような感覚がこそばゆい。


「やっぱ痕付いた」
「…その内消えるでしょ」
「じゃあこっちは?」
「……」


つ、と下に滑る指先が眉と眉の間を広げるように左右に動く。


先輩、最近ずっとここぎゅってしてる」
「……なんで、」
「俺ね、藤代誠二っていうの」


笑った顔が少しずつ近づいて、熱い吐息が唇を撫でた。
ゼロにはなれない距離であたしを見つめる瞳が何を伝えようとしているのかなんて、わかる筈がなくて。
――下心なんてそんなもの、わかりたくもなくて。


「そっち行っちゃおっかなー」
「無理でしょ」
「えー、行けんじゃね?プールのフェンスみたいに上にトゲトゲしたの付いてないし」
「トゲトゲ、…有刺鉄線?」
「だっけ?」


じり、とどちらともなく距離を取れば、ほら。
もう、全て元通り。


「ま、フェンス越えしたいなら好きにやんなよ。あたしもう行くし」
「えー!もうちょっと付き合ってくれてもいーじゃん」
「嫌」
「先輩のケチ!」
「ケチで結構。じゃーね」
「もー。先輩またね!」


ひらりと御座なりに片手を振れば、尻尾を振った犬のようにぶんぶんと手を振り返す。

(…そんな顔しないでよ)

鏡を見ているみたいだ。―馬鹿、みたいだ。
にかっと笑う顔に同じ物を返そうと口角を上げたけど、短い息が端から漏れたので多分失敗したんだと思う。


「さよなら、藤代くん」



赤信号が渡れない
(この恋は始まらない)






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何も始まらないお話。

所々「魚の骨とグッドバイ」と似ているのは、当時此方を放置してあちらを書き上げたからです。
タイトルはChalkさんからお借りしています。