唄が聴こえる。耳に馴染むやわらかな声 ゆらゆらと胸を満たす音色は酷く心地良くて、 そして気が付くんだ。 ――ああ、これは夢だ。 やさしくて 残酷な 、 「あれ?郭くんがこの時間に残ってるなんて珍しいね」 子守唄のような甘やかなメロディに惹かれて開けた扉の先にいた彼女は 突然の訪問者である俺にきょとんと目を丸め、だけどすぐに表情を和らげた。 「そっか、休んだ分レポートでチャラにしてもらってるんだっけ。…あ、もしかして邪魔しちゃった?」 クラスでも目立つ人ではなかった。少なくとも俺の中にある彼女の印象はすごく薄い。 遠くから聞こえる運動部の声や吹奏楽の音色に溶けるように、 放課後の空き教室でギターを抱える彼女は殆ど話したことのない俺に対しても特に身構えた様子もなくくるくると表情を変える。 「うん、趣味なの。郭くんのサッカーみたいな…って、ごめん。一緒にするのは失礼だったね」 ぴたりと一致したんだ。 嘘みたいだけど、初めて向き合った彼女は俺の中の空洞にぴったりと納まった。 …笑われるだろうから絶対に言わないけどね。 「おはよう郭くん。これこれ、今すっごい好きなの!…ん?ありがとう。読んでみるね」 彼女の薦める曲はどれも好みに一致して、お返しにと俺が貸す本も彼女のお気に召す物ばかりで、 「いやあ、だってさーこんなに良い天気なのに数学なんて無理だよー」 大人しい人かと思えば時折授業をサボる大胆さを持っていたり、 「ごめんごめんほんっとごめんなさい!弁償するから怒んないでって…!」 しっかりしているように見えて実は大雑把だったり、 知れば知るほど驚くことだらけな彼女は、俺にとってビックリ箱のような人で。 「ねえ、わたしたち、似てないのに似てるね」 いつの間にか当たり前のように同じ時を過ごすようになっていた。 干渉されることを嫌う俺にとって彼女は特別と呼ぶに相応しい存在だったと思う。 * * 「英士」「」 下の名前で呼ぶようになった。手を繋いだ。抱きしめた。キスもした。だけど、 「好きだ」と口にしたことはなかった。 「ねえ英士。今夜は月が綺麗だよ。そっちでも見える?」 「うん、……ほんとに、綺麗」 俺たちにとってそれが自然で、同じ場所で違うものを見ていても、遠い場所で同じものを見ていても、 どちらも近くて、居心地が良かった。 喧嘩はよくしていたと思う。それこそ、目玉焼きには醤油かソースか、なんて些細なことから、 「あのね、黙ってられたらこっちだってどうしたら良いのかわかんないよ」 言葉足らずな俺に対する彼女の不満や、 「それじゃあ言うけど。本にこういう物挟むなって何度言えば覚えるの」 大雑把な彼女に対する俺の不満。 * * 「テレビの前にはおっきいソファ欲しいよね」 「ちょっと、俺の部屋なんだけど」 「知ってるって。でも英士って必要最低限の家具しか用意してないんだもん」 「に任せると余計な物ばかりになりそうだけどね」 一人暮らしを始めた俺に合鍵を強請ったのは彼女で、色彩のない部屋はいつしか彼女の好む暖色で溢れ、 一人分しかなかった食器や歯ブラシも二人分へと増えていた。 「ねねっ、このコップ色違いで買って良い?」 「駄目って言っても買うんでしょ」 「ばれたか。じゃあ買ってくるー」 「待って。半分は俺のなんだから半分ずつ、ね」 「…プレゼントしてあげようと思ったのに」 「それじゃあ練習用の新しい…」 「よーしレジ行くよー!」 * * 「これください」 揃いの指輪を買ったのは本当に気紛れで、 可愛げもないシンプルな物だったけど、これを指に填めた彼女を想像すると妙に気分が良くて、 「ねえ、どの指に填めて欲しい?」 「……、ばか。ありがと」 驚いた後の笑顔が見たいと強く思った。……うん、この顔。 有り触れた日常。でもそれは、両手でそっと掬い上げたくなるような、愛しい時間。 「あ!紙ヒコーキ!」 子供特有の甲高い声に釣られるように顔を上げれば、燃えるような空を飛ぶ小さな飛行機。 間隔を開けて次々に飛んでくるそれは、マンションの窓から放たれたものだった。 ふわ、と足元に落ちてきたそれを何気なく拾い上げる。――どうして、 「…ごめんね。それ、もらっても良い?……うん、大事な物なんだ」 目に入った分は全部拾って子供が拾った物も譲ってもらって、それでも次々と飛んでくる全てを拾うことは出来なくて、 慌ただしく開けた扉の先にいた彼女は俺の方を振り向かずに窓の外を見ていた。 「何しているの」 「お帰り」 「うん、ただいま。―それで、何してるの」 「うん。もういいかなって」 「大事な物でしょ」 「うん、でも……」 つい、と。また一つ放った彼女はまるでうたうように、 「英士といると、惨めになるの」 両手で抱えた紙飛行機がひとつ、ふたつ、風に浚われて床に落ちる。 折れ曲がった譜面には見慣れた文字が並んでいた。 「――、ごめん、疲れてるみたい。今日はもう帰るね」 漸く俺の顔を見た彼女は、出来損ないの笑顔を残して俺の横を通り過ぎて行く。 …ああ、どうしてだろう。 彼女の帰る場所は俺がいる場所だと思っていたのに。 腕の中に残った見慣れた文字がひとつ、ふたつ、滲んで行く。 (あ、俺ってこんな風に泣けたんだ。) 息を吸うようにそばにいたのに、 いつからだろう。彼女と俺とでは、必要な酸素濃度が違っていた。 もっと早く気付くことが出来れば、何か変わっていたんだろうか? * * 「好きって言って。―うん、違う、ごめん、言わないで」 そばにいても遠く感じることが多くなった。 手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、決して触れようとはせず、 あんなにも心地良かった沈黙が今は重く圧し掛かる。――これじゃあ、 「一緒にいる意味、ないね」 呟いた彼女が笑っているのか泣いているのかもわからない。 …うん、そうだね。それなら、 「ねえ、久しぶりにデートしようか」 読みかけの本から顔を上げた彼女はやわらかく微笑んでいた。 ほんの一瞬、目じりに触れた冷たくてやさしい熱にはっと目を覚ます。 広々としたソファなのに隅に寄ってしまうのはもう癖みたいなものだ。 あの頃、彼女がいた場所にぽつんと佇む読みかけの本を手にとって顔を顰めた。 「こういうところが嫌いだったのに、」 デートをしよう。 そう告げたあの日、一度家に帰って着替えてくると立ち上がった彼女は読みかけの本をソファに残して行った。 どれだけ待っても一向に現れない彼女に嫌な焦りを感じて掛けた電話はワンコールで繋がって、 「ねえ、わたしたち、始まりの言葉なんてなかったでしょ?だからね、終わりの言葉もいらないよ」 俺が口を挟む隙も与えられずに切れた電話は何度掛け直しても繋がらずに―。 一人戻った静かな部屋で彼女が置いて行った本を開く。 「……、ばか。、」 中途半端に出来た隙間を開くと、見慣れた鍵とシンプルな指輪 それは大雑把な彼女の癖。読書の途中で席を立つ時は決まって手近な物を栞代わりに挟む。 「跡が付くから止めてって、いつも俺が言ってたのにね」 色褪せた表紙を指先でなぞる。 彼女の為と思って選び取った答えは結局口にすることすら出来なかったけれど、 多分、きっと、それで良かったんだと思う。 「だって俺たち、似てないのに似てるから。―そうでしょ?ねえ、」 たとえば、明日は無理でも、一ヶ月、一年と時が過ぎて、 どこかでまた出逢えたら、あんなこともあったねって、二人、目を合わせて笑えるだろうか。 滲んだ景色を映しながら破り取ったページを空に投げた。 |