耳が腐るんじゃないかと思うほどの言葉の羅列に足は床に縫い付き視界はぐらりと揺らぐ。
聞きたくない。だけど最後まで聞かなければ。耳の奥でぐらぐらと沸き上がる熱が冷たくなって背筋を滑った。



「ねえキミ、藤代くんだよね?」


にっこりと笑みを浮かべながら冷たいフェンスを握りしめる。ギチギチと鈍い音を立てたのに気づいてふっと力を抜いた。


「えーっと、…?」
「初めましてだよ。ごめんね、突然声掛けて」
「平気っすよ」
「ありがとう。…部活終わったんだよね?ちょっといいかな」
「着替えてからでもいっすか?俺今汗臭いし」
「じゃあそこのベンチで待ってるね」
「うっす。急いで着替えてくんで!」


――制服に身を包んだ人懐こい表情の彼が隣に腰を下ろしてからというものわたしは笑ってばかりいる。
彼が口にする話はどれも楽しいのだ。初対面というのを忘れてしまう程度には打ち解けただろう。


「サッカーはあんまり詳しくないんだけど、FWって視野が広い人が向いてるんでしょう?」
「そっすよ。俺とか180度以上見えるからぴったし!」
「そう…でもね、わたしが訊きたいのは視覚的な意味だけじゃないんだ」

「ねえ藤代くん、キミはあの子のことほんとうに好き?」

「…どーゆー意味っすか?」
「嫌な話を聞いたの。ついさっき。わたしの学年にまで届いてるから、キミが知らない筈ないよなあって」
「……なんで先輩がそんなこと訊くんですか?」
「あれ?まだ気づいてなかったんだ。わたしね、って言うの」
「え、」


刹那、彼を纏う空気が変わった。だけどそれはほんとうに一瞬ですぐに元に戻る。


「妹さんにはいつもお世話になってまーす」
「こちらこそ、妹がお世話になってます」
「先輩がのおねーさんだったなんてぜんっぜん気づかなかったなーあ」
「あんまり似てないから。―あの子の姉としてもう一度訊くね。あの子のこと、ほんとうに好き?」
「当たり前じゃないっすか」
「ほんとうに?」


彼を通り越した空を染め上げる鮮やかなグラデーションに目を奪われた一瞬、
にっこりと広げられた人懐こい笑顔が赤く染まる。―まるでどこかから切り取られてきたように、


「おねーさん、俺のこと疑ってんの?」


世界はこんなにも綺麗なのにどうしてここはこんなにも歪んでいるんだろう。泣きたくなる。
わたしだって、できることならこんなこと口にはしたくなかったよ。
膝の上で丸めた両手に力が入る。彼のペースに巻き込まれてはいけないのだ。わたしは強くあらねば。聞かなくっちゃ。

わたしの顔も彼のように赤く染まっているのだろうか。
確かめようにも細められた瞳にはわたしが映り込む隙間はなさそうだ。


「やだなー先輩、俺だって好きじゃないやつと付き合ったりしませんって」
「…じゃあ、なんで?」
「なんでって?」
「あの子が酷いことされてるって、気づいてるんでしょう?」


耳の奥を焼いた優しくない言葉は思い出すだけで冷や汗が伝う。好きならどうして、助けようとしてくれないの?


「先輩、俺ね、楽しいことが好きなんだ」
「え、?」
「俺は俺の周りが楽しければそれでいーって思っちゃうんすよ」
「…どういうこと?」
「たとえばほら、こうやって俺から見えない場所でなら楽しくないことが起こっててもいいってこと」


両手をぐっと頭の後ろに流して、流石の俺でも手のひらは見えない、と笑う。
自分の視界に入らない場所ならなにが起こっても構わない。たとえ自分を悪く言われていても興味がない。
普通の人より視野が広い分気づいてしまうことも多いけれど、普通の人と同じ範囲しか見えていないふりをすればいい。

口調も表情も人懐こさを滲ませたまま滑り落ちる言葉にぞっとした。

だってそれは、自分の前で笑っていればあの子が酷いことをされていてもいいということでしょう?


「あの子にもう二度と近づかないで…!」


立ち上がった勢いのまま吐き捨てても向けられる笑顔は揺るがない。
ひどい、ひどい、ひどい!あの子はいつもふわりとわらって、だいすきなひとの話をしていたのに。
告白をして付き合えることになったと報告してくれたときなんてあまりに幸せそうで彼に嫉妬を覚えたほどなのに。

じわりと歪んだ視界に映る鮮やかな、赤い笑顔


「それは無理」
「!どうして?」
「言ったじゃん。俺のことほんとに好きだから」
「…あの子が酷いことされてても見て見ぬふりをしてきたくせにあの子を好きなの?」

「……。先輩、俺はね、」


夕日に照らされた顔はやっぱり笑顔を浮かべていて、だけれど酷く泣きたくなるような色を帯びていた――。



きみにあげたいのは じゆう なてのひら



「…歪んでる」
「そっすか?ううーん、自分じゃよくわかんないや」
「……嫌なことを言わせてごめんね」
「なんでおねーさんが謝るんすかー?」
「まあそうなんだけど」


へらりと笑った彼に釣られてわたしの顔も情けなく歪んだ。


「でもこれだけは言わせて。あの子は藤代くんが原因で嫌な目に遭うからってキミを嫌ったりしないよ」
「…そっかなあ」
「うん、絶対」


臆病な人。自分の所為で酷い目に遭っていることを知ってると告げてしまえばあの子が離れていくと思っていたなんて。
わたしの可愛い妹はああ見えてとっても強いのだ。きっと簡単に離れてはくれないよ。

鮮やかな色に染まった顔が泣きそうにくしゃりと笑った。



赤い嘘



助けてくれる手を待ち焦がれていたのはキミだったのかな。






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短編の閉ざされた箱庭な雰囲気の藤代くんということで書いてみたら、
過去最大に酷い男な藤代くんになりました。当社比。
好きな人が離れて行くのが怖くて見て見ぬふりをする自分が最低だってことは痛いほどわかってる。
この後の彼らがどうなったのか、お好きなように想像してください。