「さっき しい…椎名さん?て人から家に電話があって、メールも電話も出ないんだけど大丈夫ですかって。 おばあちゃんが出たから聞き間違えてるかもしれないけど、とにかく心配そうな男の人の声だったってよ。 あんた心当たりある?あるんだったらちゃんと連絡してあげなさいよ?わかったわね」


機械を通した音が左の鼓膜を揺らして脳へと伝わり、そのまましゅるりと右の鼓膜から外へ逃げて行く。 通話を終えたディスプレイを見れば、12:53。確か一度起きた時は朝のニュースがやってた時間の筈だったんだけど、また寝てたのか。 ベッドの上でむくりと起き上がり洗面所へ向かう。 ばしゃばしゃと顔を洗って目が合ったのは、くっきりとでもないけど隈が出来た自分の顔。 見慣れた顔だ。特になにを思うでもない。 朝食兼昼食代わりに野菜ジュースを一杯飲んで部屋に戻る。 枕の上に転がっている携帯を取って、かちりかちりと何度かボタンを操作して止めた。


「……これか」


登録してない番号からの着信が三件。内二件は昨日だ。 登録してないアドレスからのメールは大量にあるので確認するのが面倒だが、多分昨日受信している一件だろう。


「しいな、しいな……椎名?」


少し前に告げられた内容を思い出して、「椎名」と「男」というキーワードから記憶を繋ぎ合わせる。

椎名翼

中学高校と同じ学校で、同じクラスになったのは高校二年の時に一度だけ。 高三の時にバイトしていたカフェの常連客で、週五で働いてたあたしはカウンター席に座る椎名とよく顔を合わせては話をしていたっけ。 だけどそれだけ。あたしは大学に進学すると同時に実家を出て一人暮らしを始めたからバイトは辞めたし、 椎名は椎名で高校を卒業したらどっか外国に行くとか行ったとか、そんな噂が流れてた筈だ。 あたしは大学二年生。つまり、椎名と最後に会ってから約二年経っている。 それっきり何の接点もなかった椎名から今更連絡が来るなんてどういうことだ?

あたしは元々頻繁に連絡を取るタイプじゃないし、今後も連絡をしないと判断した相手は卒業なんかを区切りにアドレス帳からさっさと消去している。 だからアドレス変更メールなんかが届いても、送り主の名前はアドレス帳に存在していないことが殆どだ。 家族や親戚、大学関係の友人知人という数少ないデータしか登録されていないあたしの携帯に、親類を除く地元の人間の名前は一桁。てかほぼゼロ。 当然そこに、椎名翼という名前も存在していない。

そもそも、椎名の場合は連絡先を交換した覚えもない。

知らない番号の電話には出ないし、知ってる番号だとしても留守電やメールが入っていなければこちらから掛け直したりしない。 中身のない世間話のメールや電話に付き合う優しさなんて持ち合わせていないあたしが、登録していないメールに返信をする筈もない。 たとえそれが、連絡先変更を告げる類のものでなくとも。


、元気?


昨日受信したメール。23:18。ちなみにその数分後に知らない番号からの着信が一件。 更にその一時間後に同じ番号からもう一件。…ついでに言えば一昨日の似たような時間に一件。 メールボックスに戻って更に過去を遡る。名前が表示されていないメールが多くてちょっと面倒だが、数か月前に昨日と同じアドレスを見つけて手を止める。


久しぶり。元気にしてる?


多分、このアドレスと番号は椎名のものなんだろう。 そういやあいつ、世話好きというかお節介というか、そんな面があった気がする。 …そういや最近、世間では物騒な事件が多発していた気もする。 数日前に届いた母親からのメールも、最近は物騒な事件が多いから夜道や戸締りは注意しろとかそんな内容だったな。

若干ずれた思考を元に戻し、ディスプレイに映された無機質な文字を見る。 多分、椎名であってるとは思うんだ。だけどもし違う人だったら? アドレスに名前は入ってない。なんで入れてないかなー。自分のことは棚に上げて思う。 てかなんで実家にまで連絡するかなー。親しい相手でもないんだから、返事がないくらい放っておけば良いのに。 めんどくさい。非常にめんどくさい。 長方形の中に並ぶ小さな文字と睨めっこを続けていると、突然画面が真っ黒に切り替わった。 それから、少し前にも耳にした音楽が流れ、ほぼ同時に再び明るくなった画面に映るのは知らない番号。

たっぷり十秒悩んでから、親指がボタンを押す。


「……、…もしもし?」
「あ、?良かった。俺、椎名だけど。わかる?」
「一応」
「はは、一応って。相変わらず正直だね」
「…はあ、」


あれ、こんな声だったっけ?声変わりはしてたみたいだけど、高校ではもう少し高かった気がする。 今あたしの鼓膜を揺らす声は記憶にあるものよりも低い。そしてそれは機械を通しているからという理由ではないと思う。 そういやおばあちゃんも「男の人」の声って言ってたらしいし。…もう、あたしの記憶にある椎名じゃないんだろうな。 今の声に上塗りされてしまったけど、それでもあたしの中に微かに残っている椎名の声は「男の人」というより「男の子」の声だったから。


「実家にまで連絡して悪かったね。でもメールしても返事はないし、電話にも出ないから心配してたんだ」
「あーごめん」
「入院してたとか、そういうんじゃないんだろ?それなら良いよ」
「うん、そーいうんじゃない。体調は万全」
「そ、良かった」
「うん、なんかごめん」
「…俺の方こそ、ごめん」
「なにが?」
「実家に連絡してまでと話したかったのに、いざとなるとなに話せば良いのかわかんなくてさ。柄にもなく緊張してる」
「…は?」
「心配だったってのは嘘じゃないけど、実家から連絡が行けば俺と話してくれるかなって思ったんだ」
「…あのさ、そうまでしてあたしと話したいとか、大事な用でもあるの?」
「…え?……、だって、あれから俺のこと避けてただろ?」
「……あれからって?」
「もしかして、覚えてもない?―ははっ、流石にそれはちょっとへこむな」
「や、ごめんちょっと待って。ほんと申し訳ないんだけど話が全く見えない。なんであたしが椎名を避けるの?」


この一言で携帯の向こう側が静まり返った。 やばい、怒らせた。全く覚えてないけど話の流れ的に悪いのがあたしということくらいわかるから、なにを言われても良いようにぐっと覚悟を決める。


「…そう、覚えてないんだ」


だけど、鼓膜を揺らしたのは予想もしていなかった静かな低い声。…泣いてるみたい。 実際は泣いてなんかいないだろうけど、今のあたしにはそう聞こえた。


「ごめん椎名、あたし昔から物覚え悪くて…」
「振った相手のことまで忘れるんだから、相当悪いみたいだね」
「うんそうな、……はあ!?」
「その様子だと、嘘じゃなくてほんとに覚えてないんだ?」
「……椎名を振ったというか、それ以前に告白された記憶すらないよ」
「正確には振られたんじゃなくて、返事をもらってないんだ。告白はメールだったし」
「メール…?」
「うん」
「……あのさ、ほんと悪いんだけど、あたし椎名と連絡先交換したっけ?」
「え?それも覚えてないの?」
「うん、ごめん」
「…の最後のバイトの日だったかな?俺はいつもみたいにカウンター席に座って。その時だよ、ペーパーナプキンに書いて交換したの」


当時のバイト先だったカフェは店長の趣味で営業している小ぢんまりとした店。 常連客ばかりということもあって、仕事中にお客さんとお喋りすることも多かった。 でも、いくら自由だと言っても仕事中に携帯を弄ったりはしなかったから――、 そこでふと思い出す。 最後のバイトの日は営業時間を過ぎてから店長やバイト仲間たちが送別会を開いてくれて、帰ったのは日付が変わってから。 …そういえば、制服のポケットにナプキンを入れたまま洗濯に出しちゃって母親に物凄く怒られたことがあるな。


「……ごめん椎名、ちょっと待ってて」


今使っている携帯は一年程前に機種変をしたものだ。 それ以前、高校の頃に使っていたものを引き出しの中から引っ張り出して、充電器を挿し込む。 電源ボタンを押してメールボックスを開き、二年前の三月頃に受信したメールで、名前ではなくアドレスが表示されているものを一つずつ開いていく。 ――見つけた。一行の短いメール。短い告白。 相手はわからないし、かといって訊ねることも出来なくてそのままにしてしまったメール。 遠い過去、ばらばらになってしまったピースがかちりとあるべきところに納まった。


「…ごめん、椎名。交換したの忘れて登録してなくて、知らないアドレスだったから放置してた」
「それじゃあ、俺からのメールにも電話にも出なかったのは、俺を避けてたわけじゃないってこと?」
「うん。てか避けるくらいならメアドも番号も変えてるよ」


あれから一度もアドレスを変えていないのは変更メールを送るのが面倒だって言うのもあるけど、 きっとどこかであのメールを送ってくれた相手がまた連絡してきてくれるのを待ってたんだ。 ……まあ、連絡してくれたところでさっぱり覚えてなかったんだけど。


「ははっ、そっか。ならそうするよな」
「あー…なんか色々ごめんなさい」
「良いよ。そもそも俺が最初のメールに名前入れなかったのが悪いんだし」
「それもそーだね」
「そこは嘘でもそんなことないって言いなよ。ほんと、相変わらずだね」
「人間そう簡単に変わらないよ」
「そうだね。…俺も変わってないし」
「え?」
「なんでもない。それより今度こそ俺の携帯登録しといてよ?」
「あ、うん」
「それでさ、俺暫く日本にいるから会えないかな?」
「あー…、」
「詫びくらい入れてくれても良いんじゃない?それとも彼氏に悪いから会えないとか?」
「彼氏なんていないし、…てかやっぱ怒ってるの?お詫びに飯奢れとかそんな感じ?」
「ははっ、怒ってない。冗談だよ。俺が声だけじゃ足りないだけ。…ね、会おう?もう一度、友達から始めさせてよ」






通話を終えた携帯に、椎名の都合がつく日にちが送られてくるのは数分後。 更にメールボックスと着信履歴に登録したばかりの名前が並んだ数日後、二年ぶりに会った椎名の、二年前のメールと一語一句違わない一言であたしの心は崩れ落ちた。


俺、が好きなんだ。


(見るのと聞くのじゃ破壊力が違いすぎる…!)(返事はメールで良いよ。楽しそうに笑った椎名になにも言えなかった。)






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無気力な女の子と頑張る椎名さんのお話。
大人になった椎名さんは優しさの中に意地の悪さを混ぜる人だと思う。
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「ウイズム」の秋夢さん主催企画サイト「44's LoveStory 2009」に提出させていただいたお話です。