…あ、雨。呟いたのは誰だったか、廊下から聞こえた声に顔を上げる。 窓の外に視線を移せば目で見えるくらいの雨粒が薄暗い空から止めどなく落下していた。
お母さん洗濯物中に干したかな?もしも外に干していたら最悪だ。誰もいない家を思って眉を寄せる。



傘持ってきた?」
「持ってきてないけど、ロッカーに折り畳みが入ってる」
「マジか。俺持ってないんだけど。書き終わるまでに止むと思う?」



ちょんちょん、と机の上に広げられた日誌をつついて首を傾げる若菜に、わたしはきっぱりと告げた。無理。
若菜はやっぱりなーと舌を出して、くるりとシャープペンを回す。



「若菜、喋ってないでさっさと書いちゃってよ」
「だって書くことねーんだもん」
「今日あったこと書くだけなんだから適当で良いじゃん」
って意外に不真面目なのな」
「若菜は意外に真面目なんだね」
「うわひっでー。意外とか言うなよ。ゆーとくんのハートはガラスでできてんだぞ」
「防弾ガラス?」
「そうそう。ってちげーし!の弾丸でヒビ入ったわ。もう無理」
「それだけ無駄口叩けるなら問題ないでしょ」
「あ、その言い方あいつに似てる」
「誰?」
「えーし。俺の親友みたいな?」
「若菜の親友だなんて、きっと苦労が絶えないだろうね」
「マジそっくりなんだけど!そっくりな分攻撃力も二倍!」
「…どうでも良いからさっさと書いてよ」



何が楽しいのか目尻に涙まで溜める始末。わたしはちっとも楽しくない。
うちのクラスでは日直は隣の席の人と二人でやるもので、日誌に至っては放課後二人揃って渡しに行かないと担任が受け取ってくれないのだ。 ―つまり、若菜が書き終わらないとわたしは解放されない。けらけらと笑っている若菜に溜息を一つ。

そういえば若菜はいつだって円の中心で惜しみない笑顔を振りまいているようなやつだ。
教室の一角、賑やかな笑い声が絶えない場所には必ず若菜がいる。
若菜とは小学校も一緒だったから同じクラスになるのもこれで数回目だけれど、思い返せばわたしは若菜の周りに人がいないところを殆ど見たことがない気がする。



「若菜っていつも楽しそうだよね」
「そーか?」
「うん。だって友達いっぱいいるし、いつも笑ってるでしょ?」
「そりゃ俺は人気者だかんなー。それに俺、みんなの若菜くんだし」



にっかしと笑った若菜に苦笑い。お前はどこぞのアイドルか。 それなのに馬鹿じゃないのと一蹴できないのは、若菜の台詞が強ち間違ってないからだ。
人懐こい若菜はサッカーで有名ということもあって学年だけでなく学校全体の人気を一身に背負っている。
一部の女子からはアイドル、一部の男子からはヒーローのように見られてるかもしれない。 …わたしに言わせればただのお調子者なんだけどね。

若菜の持つシャープペンは相変わらず本来の役割を果たさせてもらえずに、くるりくるりと回されている。



「……若菜ってさ、勝手に色んな噂されて嫌になったりしないの?」



目を回したシャープペンが動きを止める。―人気者の宿命。 わたしは若菜の顔は見ずに、最近耳にしたばかりの噂を思い返していた。
(若菜くん好きな人いるんだって!)(うそー!誰!?)(おんなじクラスの……) 地面を打つ雨は勢いを増したみたいで、窓を閉めてるのにも関わらず存在を主張するように激しく音を立てる。 わたしは少しだけ顔を顰めて窓の外に視線を移し、……それから、何でもなかったみたいに口を開いた。



「ねぇ、書き終わった?」
「まだ。てかどーせ俺この雨だと帰れねーし」
「わたしは早く帰りたいんだけど」
「何か用事でもあんの?」
「妹の迎え」
「妹?…あー、まだ保育園通ってんだっけ?」
「うん。今日はお母さん仕事で遅くなるからわたしが当番なの」
「ふーん。……じゃあさ、俺も妹ちゃんのお迎え一緒に行くから傘入れてよ」



雨の音がやけに響く。なあ聞いてる?なんだか遠くに聞こえる若菜の声に、それでもきっぱりと答える。無理。
傘は一本。しかも小さな折り畳み傘。どう考えたって二人一緒に入るには狭すぎるのだ。 それに妹だって傘を持ってないかもしれないから、あの子が小さいといっても折り畳みに三人は定員オーバーでしょう?
まるで言い訳のように靄がかかった頭でそんなことを考えていれば、一拍置いて若菜がからからと笑った。



「即答かよ! 雨に降られてに振られて、ゆーとくんのガラスのハートずたずたなんだけどー」
「知らないよ。それに振ったとか、そういうんじゃないでしょ」
「それなら良いけど。てかさ、ゆーとくんと相合傘するチャンスをたったの二文字で断るなんてくらいだぜ?」
「…じゃあそこらへんの女の子にでも頼めば?みんなの若菜くんなら簡単なんじゃない」
「そりゃそーだ!……でも、」



一際大きな笑い声を響かせた若菜にちらりと視線をやって、動きを止めたままのシャープペンに眉を寄せる。 そんなわたしに気づいたのか、目が合った若菜がいつもと少しだけ違う笑顔を見せた。(…あ、来る) ぞわっと背筋が粟立つ感覚に気づいて人知れず覚悟を決める。



「二十四時間みんなの若菜くんやってっと疲れんだよな。俺コンビニじゃねーし」



いつもより低い、静かな声。渇いた笑みを孕ませて若菜は唇だけで笑った。

わたしは、ふとしたときに見せるこの「みんなの若菜くん」じゃない若菜を何度か見たことがある。

それは賑やかな円の中心でだったり、友達に手を振って背を向けた瞬間だったり。
前者はほんの一瞬で、後者に至っては感情が抜け落ちたような無表情になるにも関わらず、誰かに声を掛けられると一瞬で笑顔に戻るのだ。 初めて見たとき、目が合った瞬間にからりと笑った若菜の姿に畏怖にも似た感情を抱いたのを覚えている。 そして、わたしが「若菜結人」という人を意識するようになったのはそれからだ。

みんなの若菜くんではない若菜結人を意識するようになって気づいたのは、若菜は反射で笑う人だということ。
身体に沁みついた表情は心とは別のとこにある。まさか笑うのが仕事なの?抱いた疑問をようやく投げられるときがきた。



「……だったら止めれば良いのに。別に若菜は笑うのが仕事ってわけじゃないでしょう?」
「あーうん、そーなんだけど。でもへらへらしてた方が楽だし、人もいっぱい集まんだろ?」
「疲れるって言ったくせに」
「細かいことは気にすんなって!」
「…。若菜の言い方だと、笑ってないと友達がいなくなっちゃうみたいに聞こえる」
「実際そうなんじゃねーの?俺みたいなやつはちょっとでも間違えたら真っ逆さまだぜ。嫌われ者でひとりぼっち」
「そんなことないと思う」
「いやいや、そーなんだって。…ま、それはそれで楽かなーとも思うんだけどな」
「…なにそれ」



不満げに若菜の顔を見れば、やっぱりそこには人懐こい笑みが広がっていた。

若菜結人という人は自分を知りつくしてるような男で、自分の顔の良さやポジションを実によく理解して利用している。
だからこうして、笑顔一つで全てを有耶無耶にしてしまうんだ。…なんとも厄介な。



「俺、さみしいと死んじゃうから」



鉄壁の笑顔を前に成す術もない。ていうか、お前はそんなに繊細さをアピールしたいのか。 アピールされたところで優しくしてあげようとは思わないけど。
ようやく手を動かし始めた若菜を見ながら、ふと頭を過ったものを捕まえる。
長い耳で赤い目をしたそれを思い浮かべながら丸っこい字を生み出している若菜の手に視線を落とした。



「……なあ、って噂とか信じる方?」
「物によるかな」
「みんなの若菜くんに関する噂だったら?」
「みんなの若菜くんにはあんまり興味ないし、信憑性も薄いから聞かなかったことにする」
「ふーん。やっぱって変わってんな。俺としては楽だけど」
「作らなくて良いから?」
「そんな感じ」
「…今更だけど、みんなの若菜くんが「みんな」に含まれるわたしの前でそんなこと言って良いの?」
「んー…って「みんな」と違うから良いんじゃね?―それに、」


ぼきりと芯が折れる。かちかちとシャープペンの頭をノックした若菜の指は、それから少しだけ動きを止めた。



「みんなの若菜くんじゃ、好きなやつ一人落とせねぇし」



何事もなかったように手の動きを再開した若菜は、丸っこくて歪な字をどんどん作り出していく。 元々若菜の字は綺麗というカテゴリーには当て嵌まらないけど、本来ここまでへたくそでもない。
シャープペンを握る手が小さく震えているのに気づいて、わたしは小さく笑みを零した。



「若菜ってめんどくさいよね」
「あ、今ので俺のガラスのハートが粉々になった。どう責任とってくれんだよ?」



半分冗談半分本気、そんな微妙な表情を見事に表しつつ拗ねたように笑う。

若菜結人という人はうさぎみたいな男だ。
寂しいと死んでしまうことで有名なうさぎは、実は構いすぎてもストレスで死んでしまうらしい。
どこから得た知識かわからないし、実際は違うかもしれないけど、



「妹の迎え一緒に行っても良いよ」



きっと、距離感さえ間違えなければ上手くやっていけるのだ。
雁字搦めになった若菜がひとりで消えてしまわないように、わたしはこのなんとも厄介で繊細な男との距離をじわじわと埋めて行くことにしよう。
……だって、本人の口から聞かない限り、噂を真に受けるつもりはないのだから。



心をゆらす雨粒

(誰にも内緒で震えてる。まるでうさぎのようなひと)





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第二段は若菜くん。 歯がゆい距離感を目指したのに……あれれ?
興味本位から表面だけではない若菜くんを意識するようになったらそれがいつのまにか恋心になっていて、
鋭い若菜くんはそれに気づいているんだけど、でも自分の立場を考えると下手に動けないからまだ言えない。
勝手に広められた噂話が当たっててぎくりとしている中学二年生。