肌を刺すような寒さにぶるりと肩を竦める。 都心で雪が降るような季節なんだから、太陽がすっかり姿を隠してしまった夜ともなれば冷え込むのも当然か。 暖かな店内との温度差にしっかりとマフラーを巻き直し、よし…!と気持ちを切り替えるあたしの斜め上から耳慣れた声が降る。



「お待たせ」



見上げるように振り返り、ぴたりと視線が合わさった翼に小さく首を振る。
翼の顔がどの角度にあるのかなんてすぐにわかってしまう。
きっとそれは翼も同じで、どれくらい視線を落とせばあたしと目が合うのかなんて考えるまでもないのだ。 …腐れ縁って怖い。なんて、素直じゃないあたしは可愛くないことを思ってしまうけど。



「ご馳走様でした」
「気に入ったならまた来る?」
「うん。そのときはあたしがご馳走するよ」



答える代わりにくしゃりと頭を撫でられる。黙ってるってことは、奢られるつもりはないってことか。 「明日休みなんだって?夕飯付き合ってよ。それとも都合悪い?」仕事を終えて外に出たら翼が待ち構えていたときには驚いた。 有名人がこんなところで何してんだ。呆れ半分で頷くあたしに翼は悪戯が成功したみたいな顔で笑ってたっけ。
そういうところ、ちっとも変わらないなあ。昔に比べれば随分男らしくなった翼だけど、あの笑顔は昔と同じですっごく可愛かった。 …口に出したら怒られるだろうから言わないけど。

抑えきれなかった笑い声が小さく零れて、それに気づいた翼に頭を小突かれる。



「なに笑ってんの?」
「なんでもー」
「ふうん。…どっか寄りたい場所ある?」
「ん、そうだなあ……あ、」



するりと泳ぎ出した視線は一つの場所で動きを止める。 ぴたりと視線を固定したまま黙って足を動かせば、文句も言わずについてくる足音。



「覗いてみる?」



飾られたアンティーク調の小物を眺めるあたしにやわらかな笑いを交えた声が落ちる。
疑問符を添えておきながらあたしの答えなんてわかっているんだろう、軽く腕を引かれて店の中へ。

女の子が好きそうな小物やアクセサリーが飾られた店内は、静かな音楽(ジャズ?)が流れる落ち着いた雰囲気。 一人だったら入れなかったかもしれないな。二十代も後半なのに、大人の雰囲気が漂う場所は少し苦手だ。
壁に掛けられたピアスを見ていたら、隣にいた翼が小さく声を漏らした。不思議に思って顔を上げる。



「どうかした?」
「…や、ちょっとね」
「?……あ。あれって横山選手?」



翼がさっきまで見ていたと思われる方向を探れば、階段から下りてきた同い年くらいの男の人に気づく。 よくよく見ればそれは翼と同じ職業の人で、ぽつりとその名を呟けば聞こえたらしく目が合った。



「……」
「おい、なんか言えよ」
「椎名の彼女?」
「…お前な、普通あいさつが先だろ」



呆れたような溜息。だけどこんなやり取りも慣れているのか、翼はすぐにまあ良いけどと苦笑する。 そしてさり気なくあたしに注がれていた視線を遮るように一歩前に出た。



「そういや怪我大丈夫なの?昨日やったんだって?」
「おー。一週間くらい大人しくしてれば良いらしい」
「らしいって…自分のことだろ」
「あー」
「はっきりしなよね。ほんとに大丈夫なわけ?」
「平馬!……って、椎名?」
「山口?…なに、お前ら男二人かよ」



言外に女向けの店にと含めて眉を寄せる。…確かに男だけで入るには躊躇するような雰囲気だけど、何もそんな顔しなくても。 山口選手は翼の陰になっていたあたしに気づくと、人の良い笑顔であいさつをしてくれた。無言で見つめてきた横山選手とは正反対だ。



「ケースケ、店ん中で大声出すなよ。みっともない」
「それは同感。迷惑だろ」
「あーそっか、ごめん。…じゃなくて、平馬もうさっきの買ったか?」
「まだ」
「間に合った…! お前あれじゃなくて別のにしろよ。他にも似合いそうなのあったろ?」



小さく言い合いを始めた二人に翼と顔を見合わせる。 言い合いというか、人が良いと評判の山口選手が必死に横山選手を止めようとしている感じだ。 どうしたんだろう?首を傾げれば翼が口を挟む。



「なに揉めてんの」
「そうだ、椎名からも言ってくれよ。こいつプレゼントにこれ買うってきかなくてさ」
「……指輪?へえ、横山って彼女いたんだ」
「違う、妹」
「お前の妹じゃないだろ!」
「…よくわかんないけど、山口は声抑えて」
「あ、悪い。……そうだ、さんはどう思う?」
「…へ?」
「相手の女の子ってこいつの従妹で高校一年生なんだけど、彼氏でもないやつから指輪もらうのってどうかな?」
「あー……ええと、そうだな…。やっぱり、ちょっと戸惑うかもしれないね。それくらいの年齢だと尚更」
「だよな!ほら平馬、やっぱ別のにしようぜ。さっき見てたブレスレットだって可愛かっただろ?」



納得しきれていない様子(無表情だけど)の横山選手の背中を半ば強引に押した山口選手は、 くるりとあたしを振り返って「ありがとう、邪魔して悪かったな!」と爽やかな笑顔を残して再び二階へ上がって行った。
まるで嵐みたいだった。いなくなった二人というか片方を思って苦く笑う。……あれ?そう言えば…。



「なんで山口選手あたしの名前知ってたんだろ?」



呟きを拾ってくれるだろうと思っていた翼は、だけど何も言わずにじっと何かを見ている。 翼?呼んでも応えない彼に首を捻って、翼の視線を追うように視線を落とした。



「わあ、可愛い…!」
「―やっぱり。が好きそうだと思った」
「ピンキーリングかな?……う、」
「買ってやろうか?」
「い、いいよ!あ、あっちの小物見て来るね」



三色の石が埋め込まれた小指サイズの指輪はとっても可愛くてあたしの好みと見事に一致していたけど、残念ながら桁が一つ二つ多かった。 もうちょっと安かったら買ったのにな。あたしの気持ちはお見通しとばかりの翼にはとんでもないと首を振る。
…翼、さっき言ったこと聞いてなかったのかな。からかう風でもなく言うから焦ってしまった。 戸惑うのは高校生だけじゃないんだからね!―というか、寧ろこの年齢だからこそ戸惑ってしまう。 「誰か良い人いないの?」母親に何度訊かれたことか。少なくとも、学生時代の同級生の結婚式に足を運ぶ度に言われた気がする。

さっきの場所からあまり動いていない翼を見て、小さく溜息。


「二人って付き合ってるんだと思ってた」―幼なじみの言葉を思い出す。


中学時代から何だかんだで付き合いは続いているけれど、飽くまで友人としての付き合いだ。 翼と恋人になったことなんて一度もないし、きっとこれからもないと思う。 そういう感情を抱いたことがないのかと訊かれれば困ってしまうけど、今の心地良い関係を崩してまでどうこうしようとは思えないのだ。 …はあ。重い息を押し出してもあたしの心は軽くならない。

何度かそれを繰り返していると、ぽんと肩に手が触れる。



「上も見る?」
「ううん、やめとく」
「そ。じゃあそろそろ行こう」



翼の言葉に頷いて店を出る。全体的に高価で大人な雰囲気のあのお店は、全体的にあたしの好みと一致していた。
ほんの少しだけ後ろ髪を引かれつつも無理な買い物はだめだと気を引き締める。 数日経っても気になるようだったら給料日の後にでも来れば良い。


あたしは元々電車通勤だし翼もお酒が飲めるようにと車では来なかったので、電車に揺られてアパートを目指す。
サッカー選手として実力があり、顔も整っている翼は有名人だ。 普通にしているのにも関わらず翼と一緒にいて騒ぎに巻き込まれたことは殆どない。 週刊誌にあることないこと書かれるかと心配したこともあったけど、今のところ妙な記事を書かれたこともなく、翼から何か言われたこともないのだ。
…堂々としてれば案外平気なのかなあ?翼に訊いても笑って誤魔化されてしまうので、そう思うことにしておこう。



「翼この駅じゃないでしょう?」
「俺がこんな時間に女一人で帰すような無責任な男に見える?」
「こんな時間って…まだ日付も変わってないのに」
「良いから黙って送られなよ」



車のときはまだしも、電車のときまで送ってくれなくて良いのに。 小さく肩を落とすけど、翼の気遣いが嬉しくないと言えば嘘になる。 …お礼くらい素直に言えれば良いのにな。自分の性格が恨めしい。



「お茶でも飲む?」
「や、今日は帰るよ。…あ、そうだ
「なに?」



鞄からキーケースを取り出してぶら下がっているうちの一つを掴む。 鍵を回しながら顔を上げると、真っ直ぐあたしへと伸ばされていた手に首を傾げた。 「…なに?」もう一度同じ言葉を紡げば翼がふっと笑う。



「開けてみなよ」
「…うん。……え、これって、」
「店員に訊いたらチェーンに通してくれるって言うからさ。指輪じゃないから良いだろ?」
「そういう問題じゃない!」
「近所迷惑」
「で、でもっ…だって、」
がいらないって言うなら捨てるけど。女物だから俺がつけるわけにもいかないし、他にあげる相手もいないしね」
「へ、返品とか」
「それじゃ俺が格好悪いだろ」
「……でも、」
「……。ごちゃごちゃ五月蠅い。貸せよ」



不機嫌そうにあたしの手から箱を奪った翼は開いたままの箱からネックレスを取り出す。 ちらりとあたしの首を見て一瞬顔を顰め、声も掛けずにぐるりと巻きついていたマフラーを奪う。 それを無言であたしに押し付ければ、慣れた手つきで留め具を外しあたしの首へと両手を伸ばした。(……あつい、)
正面から腕を回されて至近距離にいる翼に戸惑う。落ちてくる息も、触れる指先も、確かな熱となってあたしを溶かす。

回された腕が消え、翼のつま先が一歩後ろに下がったのを確認してようやく顔を上げる。 胸元の冷たさに手を伸ばし小さな輪をじっくりと眺めた。

三色の石が埋め込まれた小指サイズのリング。―チェーンを通されネックレスのトップへと変貌したあの指輪だ。



「なに赤くなってんの?」



言葉が見つからなくて困ってしまったあたしに、にやり。落とされた楽しそうな声。
こ、んの狐め…!昔に比べれば随分やわらかくなったけど、やっぱりこういうとこは変わってない。 あたしが照れるのをわかっていてわざとやったんだ。そして、予想通りの反応を楽しんでいる。……なんて悪趣味な男だろう。
――そして、その悪趣味な男を好きになってしまったあたしは、どうしようもなく悪趣味なのだ。



「……ありがとう」
「どーいたしまして。その指輪の隣の指にぴったりなサイズのは、また今度買ってやるよ」



くしゃりと髪を撫でられて顔を上げる。寸分違わずぴたりとかち合った翼の瞳は、どこまでもやわらかな色を宿していた。



故意に曲者

(言葉巧みに惑わせる。まるできつねのようなひと)





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第六段は翼さん。 全ては彼の手の内で、偶然を装ったとしても計画的犯行。
素直に降参するのも悔しいけど、彼の余裕を崩せるとも思えない。
文句の一つも言ってやりたいのに、あまりにも優しい顔をしているので結局黙るしかない。ずるい。
告白なんだかプロポーズなんだか。改めて言ったときの反応を楽しみにする二十六歳。