そわそわ、そわそわ。 誰もが浮足立つこの季節。特に女の子は大忙し。
曲がりなりにも女の子であるわたしも、そわそわそわそわ落ち着かないのです。

時計を見るふりをしてちらり。視界の端に入るのは、クラスメートの三上くん。



「三上は良いよなー。今年も大量だろ?」
「ばーか嬉しくねぇよ。俺甘ったりぃの嫌いだし」
「お、おまっ!なんてもったいない!」



…そうか、三上くんやっぱり甘い物嫌いなんだ。 盗み聞きはよくないってわかってるけど、聞こえてしまったんだからしょうがないよね。 しょんぼりと肩が落ちそうになるのをなんとか堪えて机の上へと視線を移す。


クラスメートの三上くん。三年間おんなじクラスの三上くん。

別校舎だった中学のときは、遠くから見てるだけだった。 高校になって折角おんなじクラスになったのに、やっぱりわたしは見てるだけ。 でもね、三年連続でおんなじクラスのわたしは、とっても贅沢だと思うの。

話し掛けてみたいとは思うけど、こんなに近くに三上くんがいるだけでお腹がいっぱいになってしまうのだ。

…というのは、言い訳。 ほんとうは話し掛ける勇気がないの。人気者の三上くんにわたしなんかが話し掛けたって迷惑だ。 あ、迷惑っていうのは三上くんが仲良くない人と喋るのを嫌ってるとかじゃないよ! たとえ仲良くない子でも、三上くんはちゃんと話を聞いてくれる。ずっと見てたから知ってるもん。
ただ、わたしが上手く話せないだけ。きっと緊張して言葉が続かない。迷惑をかけてしまう。
中学の頃に比べて距離は随分縮んだはずなのに、わたしと三上くんの距離は変わらない。 それどころか、どんどん離れているように思う。


「最後なんだから頑張ってみたら?このままだと後悔するよ」―幼なじみの言葉を思い出す。


武蔵森は全寮制だから長期休みにならないと会えないけど、メールなんかは毎日のようにしている。 うじうじして進歩のないわたしを叱ったり背中を押したりしてくれる彼女とは一番の仲良しだ。

さいご、なんだよなあ…、

そわそわ、そわそわ。 女の子が浮足立つこの季節。三年生は学校に来ることが殆どない、二月。
次の登校日は十四日。…そう、もうすぐバレンタインなのだ。


実を言うと、去年もその前もわたしはチョコレートを用意していた。 ろくに話したこともないしお菓子作りに特別自信があるわけでもないわたしが手作りなんて用意するわけもなく、市販のビターチョコレートだったんだけど。

去年もその前も、鞄の中に入れたまま一度も取り出すことができなかった。

苦い苦いチョコレートは、次の日わたしの胃袋に納まったのだ。
わたしはミルクチョコレートが好きで、ビターは苦手なんだけどなあ…。 そんなことを思っても渡せなかった自分が悪い。
も一度視界の端っこに映しこんだ三上くんを見て、深い深い息を零す。
嬉しくないなんて聞いちゃったら、余計渡せないや。 それに、用意したってまた自分で食べることになると思う。(……うん、決めた) ぐっと手を丸めて小さく頷く。どうせ渡せないんだ、もう諦めよう。 三度目の正直なんて言うけれど、何度やっても無理なものは無理なのだ。後悔するよ?頭の中で幼なじみの言葉が揺れたけど首を振って聞こえないふり。
キーンコーンカーンコーン。耳を揺らしたその音を合図に、わたしはそれ以上考えるのを止めた。



*




「はい?…み、三上くん!?」



午前中だけで学校は終わり、さあ帰ろうと鞄を掴むとほぼ同時に名前を呼ばれて踏み出そうとした足を止める。 返事をしながら振り返った先にいたのは三上くんで、びっくりして声が裏返ってしまった。恥ずかしい。



「お前、受験対策の紙出してないだろ」
「…え?」
「あれだよ、後輩に向けて勉強法とか書けって担任から渡されたろ?提出今日までだぜ」



うちの学校では早めに進路が決まった人は、その学校(あるいは会社)に受かる為にどんな勉強をしたのかを書いて、後輩が参考にできるようにしているのだ。 わたしも先輩が残してくれた勉強法を参考にしたから効率良く勉強ができたと思う。推薦で受かることができたのもそのお陰かな。 ぼんやりとそんなことを思いながら、ふと気づく。
第一志望校に合格したわたしは、担任の先生に勉強法を書くようにとプリントを渡されていたんだった…!
そういえば最初の登校日までに書いて来いって言われたような……わたし、あのプリントどこやったっけ? 慌てて鞄や机の中を漁るけど、それらしいプリントは見つからない。
さあっと血の気が引いて、情けなくて、わたしが答えるのを待ってくれている三上くんの顔が見られない。



「……ご、ごめんなさいっ、わたし、あの、」
「忘れてたのか?」
「…ごめんなさい」
「お前案外抜けてんな」



溜息交じりの声にきゅうっと体の真ん中が萎縮する。 三上くんが呆れるのも当然だ。ますます情けなくなって、顔が上げられない。
だけど、ぎゅうっと両手を丸めて俯くわたしに、助け舟を出してくれたのは目の前にいる三上くん。「ほらよ」 ――落ちてきた言葉とともに、落としたままの視界ににゅっと手が生える。
驚いて顔を上げれば、一枚のプリントを持った三上くんが少しだけ眉を寄せて口許を歪めていた。
…まるで、仕方ないなって言うように。
少しだけ見惚れてしまったわたしは、はっとして差し出されたプリントと三上くんの顔を交互に見る。 それから、やっとのことでそのプリントが何であるかを理解したわたしは、おずおずと手を伸ばす。

行動の遅いわたしを三上くんは怒るでもなく、急かすでもなく、手を伸ばしたまま待っていてくれた。



「三上くん、あの、これ…」
「今日中に提出すりゃ良いってよ」
「あ、ありがとうっ!……、でも、どうして?」
「どーせ忘れてんだろうと思ってもらっといた。じゃなきゃが期限になっても提出してねーなんてあり得ねぇだろ」



言われた言葉になるほどと頷いて、でもすぐに首を傾げる。 あり得ないだなんて……そんな風に断言してもらえるほど、わたしは三上くんと親しくはない筈だ。 というか、こんなに話したのだって初めてなのに。
見つからない答えをそれでも必死に探すわたしに、三上くんの声が降る。



「ぼさっとしてねーでさっさとやっちまえよ」
「う、うん。……あの、三上くん?」
「あ?」
「えと…、帰らないの?」
「お前がそれ提出すんの確認したら帰る」
「え?」
が今日中に提出しなかったら、俺が伝え忘れたって疑われるかもしんねーだろ」



めんどくさそうに溜息を吐き出した三上くんは、そのままわたしの斜め前の席に腰を下ろした。
わたしはその姿をぽかんと見つめて、だけど首だけで振り返った三上くんに「早くしろよ」と言われて慌てて椅子に座る。 鞄の中から筆記用具を取り出してプリントに向き合いつつ、首の位置を戻して雑誌を読み始めた三上くんをちらり。 (うれしい、うれしい、うれしい…!)
言葉遣いや言い回しがちょっときつくて、荒っぽい素振りを見せたりするけれど、根本的な部分はとってもあたたかい。
今だってきっと、わたしが教室にひとりぼっちになるのが可哀想だと思って残ってくれているのだ。

わたしに与えられた優しさが体の真ん中からじわじわと全身に広がる。わたしだけに与えられた。今だけは、三上くんの優しさを独り占めできるのだ。 ……なんて贅沢なんだろう。気を抜くとだらしなく緩みそうになる顔の筋肉に力を入れる。


今、目の前にいるのがわたしの知っている三上くんで嬉しい。 ――わたしが知っている三上くん。…ずっと見てきた三上くんは、ほんとうに優しい人。


中学からのお気に入りの後輩に意地悪をすることはあっても仲間としてすごく信頼していたし、 高校になって外部から編入してきた一つ下のサッカー部の子については色々と言っていたけど、それでもやっぱり仲間として大切にしていた。

だってわたし知ってるんだよ。

二年生になってすぐ、わたしたちの学年で彼について良くない噂が流れたとき、真っ先に否定してそれ以上広まらないようにフォローしてたのが誰なのか。 …もちろん、渋沢くんや他の部員さんも動いてたけど、一番に行動したのは三上くんだった。

ぶっきらぼうな三上くんは勘違いされやすい。なんだかもったいないと思うけど、そういうのを含めて三上くんの良さなのかな、とも思うの。
ろくに話もしたことのないわたしがこんなこと言うのはおかしいかもしれないけど、でも、ずっと見ていたから――。



*



「やっと終わったか」
「うん。…遅くなっちゃってごめんね」



いつの間に掛けていたのか、三上くんはメガネと雑誌を片付けながら立ち上がる。 少し遅れてわたしも立ち上がって、書き終えたばかりのプリントと鞄を手に歩き出す。
三上くんはほんとうにわたしがプリントを提出するのを確認するつもりだったらしく、一緒に職員室まで来てくれた。
職員室に行くまでの間大学について訊かれたので答えたら、その大学について三上くんが随分詳しくて驚いた。 どうやら三上くんの知り合いの子が目指しているのと同じ学校だったらしい。
その子について訊いたら「可愛くねぇガキ」と鼻で笑ってたけど、目はすごく優しかったから、きっと大切な子なんだと思う。 ……少しだけその子が羨ましくなっちゃったのは、わたしだけの秘密。 こんなに話せただけでも嬉しいのに、わたしって欲張りだなあ。



「三上くん、今日はほんとうにありがとう。遅くまで付き合わせちゃってごめんなさい」



何だかんだで女子寮まで送ってくれた三上くんに頭を下げる。顔を上げると、三上くんはお気に入りの後輩に意地悪をするときのように少しだけ口角を上げた。 なんだろうと首を傾げるわたしに、三上くんは表情を崩さず口を開く。



「俺が下心もなくただのクラスメートに付き合うわけねーだろ」
「…え?」
「なんてな。じゃあまた十四日にな」



吐息で笑った三上くんの背中をただただ見つめているわたしの上で、一羽のからすが短く鳴いた。 ふわりと落ちてきた黒い羽の色は、三上くんの深い瞳とよく似ていて、

…今年こそ、渡せるかな。 添える言葉は今日のお礼か、それともずっと抱いていた大好きか。

動けなくなったわたしの全身を、少し前に聞いたばかりの鳥の声が熱とともに染め上げた。



ほどけて染めて

(ぶっきらぼうな優しさを。まるでからすのようなひと)





---------------------------------
第五段は三上さん。 一見皮肉屋な彼は実は誰よりも仲間思い。だから必要なら自分を悪役にだってできる。
身内を苛めて良いのは自分だけ。他人が手を出したら容赦ない。彼の内側に入った人はわかりにくく甘やかされると思うの。
寄せられる好意に気づかないほど鈍くないし、だからといって興味のない相手に優しくなんてしない。それも彼なりの優しさ。
要するに、チョコレートがほしいんです。素直じゃない高校三年生。