少しだけ肩が軽くなったと思ってしまうあたしは最低かな。
身体の真ん中で渦を巻いていたものは小さなシコリを遺して大人しくなった。
人って簡単にできていないね。わかっていたつもりだけど、まだまだ全然足りなかった。
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「」
ほんとうは名前を呼ばれるたびに心臓を鷲掴みにされた気分になる。長年猫を被り続けてきただけあって気づかれてはいないことだけが救いだ。
一歩間違えたらこんな風に笑って話すことなんてできなくなっていたかもしれないけれど、彼は今までと同じような関係でいることをゆるしてくれた。
我儘だね、あたし。付き合えないけど今まで通り仲良くしていたいなんて、そんな……、
人の痛みに敏感で自分の痛みに鈍感でありたかった。
だけど現実のあたしはその逆。あたしはあたしを護ることに必死でその為なら平気で誰かを傷つける。嫌な性格。
「さん」
向けられる笑顔を素直に受け止められるようになったのは嬉しい変化だと思う。
容易くあたしを見透かしてしまう彼の瞳が少しこわくて、その中に映る裸の自分と向き合うのが嫌だった。
でも今は違う。なんて言うのかな、こういうの……そう、すごく安心するの。
ああ、大丈夫なんだって。間違ってしまうことはあっても、あたしはあたしなんだって。
椎名くんはあたしが昔の自分に似ていると言っていた。あたしが変わるキッカケをくれた人。
じゃあ彼もこんな風にずるい自分に嫌気が差したことがあったのだろうか。今の椎名くんからはあたしと似ている部分なんてちっとも見つけられないけれど。…あ、でも猫被りなのは一緒だった。
人に良く思われたいけど都合の良いやつだと思われるのはイヤ。
早く大人になりたい。だけどまだ子供でいたい。
鉛筆でぐるぐると円を書き続けてるみたいだ。複雑に絡んで混ざって、気づけばもう最初の線もわからない。
もっと単純に生きられたら良いのにね。心は常に二択ではいられない。
「正式に外部の人に頼んだんだね」
「え?」
「サッカー部の監督」
「…ああ、ぼくの親戚。色眼鏡でしか見ない教師なんかに任せたくないし」
「強くなれそう?」
「なれるかどうかじゃなくて、なるんだよ。本格的に動き出すのは来年度からの予定だけどね」
意気込むわけでもなくさらりと放たれた言葉なのに椎名くんが告げると真実味が増すから不思議。
来年の今頃は飛葉中サッカー部の名は大きく広まっているだろう。…その頃彼は部を引退しているのが少し残念だ。そう思ってしまうのはあたしを含む周りだけで、本人たちはちっとも気にしないんだろうなあ。
だってその頃には彼らの意思を継ぐ者が沢山いるだろうから。
「近々練習試合組もうと思ってるんだけど、さん観に来る?」
「え?」
「うちの部のこと気にしてくれてるみたいだから」
違った?口の端を持ち上げてちらりと大きな黒目がこっちを見る。
椎名くんの隣の席になってから彼と話す回数がぐんと増えた。
毎日顔を合わせるんだから自然なことだけど、こうしているとただのクラスメートから少し仲の良いクラスメートに格上げされたように思えてしまう。
…嬉しい、のかな?自分でもよくわからない。でもなんだかくすぐったい。
だけどこうしてあたしが笑うたびに苦しい想いをしている人がいることをあたしは知ってる。
一人二人じゃないと思う。椎名くんは人気者だから。中にはあたしを想ってくれている人もいることも、ちゃんと知ってる。
「さん?」
不思議そうな色をのせてあたしの中に吸い込まれた声が疼き出しそうになった塊を静かに宥める。
いつから彼はあたしの精神安定剤になったんだろう。ちょっと前まで極力避けようとしてたくせに、あたしって現金だ。
一度なにかを共有すると親近感が湧くのかもしれない。良くも悪くも視界に入れないと気が済まなくなる。椎名くんについては良い意味で、だけど。
でも勘違いしちゃいけない。あたしは勝手に彼に救われたつもりでいるだけで彼にとってあたしは相変わらずただのクラスメートなんだから。
あの日のことだってほんの日常の一部でしかないんだよ。すぐに埋もれて上書きされてしまう。
ふわふわの髪が揺れる。斜めに傾いだ頭。
どうかしたのかと訴えかける瞳に首を横に振ることで応えて、その拍子に顔に掛かった横髪を耳に掛けた。
「あ」
「え?」
「怪我してる」
「…え?」
髪と耳に触れた指が横から攫われて机に下りる。
ただ触れただけの指先にどくどくと血が集まっているのか、なんだかすごく熱い。
「これどうしたの?」
「ノート捲るときに切っちゃって。でももう痛くないよ」
「ふうん」
じいっとあたしの指を観察していた椎名くんが視線だけをこっちに持ち上げる。…あ、睫毛長いな。
「それで?試合観に来るの?来ないの?」
「…行けたら行くね」
「上手い逃げ方」
「そんなんじゃないよ」
苦く笑えば椎名くんは綺麗に唇で弧を描いた。……困ったなあ。意識して落ち着いたふりをしてるけど意識しなかったら今頃わけのわからないことを口走ってたかもしれない。
生き物は死ぬまでに心臓がどきどきする数が決まっているってどこかで聞いたことがあるから、きっと今あたしの寿命は大幅に削られていることだろう。
「……椎名くんって結構ずるいよね」
「今頃気づいた?…なんてな。そんなのお互い様だろ」
相変わらず絡むことなく触れただけの指先は緊張しっぱなしだけれど、くすぐったいこの感覚をあたしは多分嫌いじゃない。
それならこのまま流されてみようかな。きっと途中で答えを見つけられる筈だから。
―それにね、他でもないあたし自身がその先を知りたいの。
「試合の日程決まったら教えてくれる?」
たとえこの選択が、たくさんの誰かを傷つけることになったとしても
今はまだ折り畳んで封をして
少しずつ大事に探していきたいんだ。
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