11月7日(水)

一生分の勇気、振り絞った気がする。
……あー、もー………ばーか!!






***





今までの人生を振り返って、忘れられない言葉ってあると思うの。
わたしにだって幾つかあるけどその中にも色んな種類があって、思い出すと胸がほっこりするものや、 頭を掻き毟りたくなるような衝動に駆られるものもある。

もしもその中に、別の言葉で塗り潰そうとすれば逆にそっちを溶かしてしまい、 ならば記憶から消し去ろうとクレンザーで磨いても落ちないものがあるとすれば、それはきっと、


「鏡見て出直せば?」


――それはきっと、



「…なんで、そんなこと言うの」
「へ?」
「え、なに急にどした?」


ぱき、ポテチを噛み砕く音に続いて響いた意味を成さない音。
きょとんとした表情の彼女が言いたいだろう言葉を引き継いだ友達は、不思議そうに首を傾げてわたしを見た。

…あぁ、やだな。声が震えそう。

ごくりを唾を飲み込んで、今にも膜を張りそうな視界をぐっと広げる。


「そりゃ、どうやっても好きになれない人っているけど、でも、…勇気出して告白してくれたのに、そんな酷い振り方ないんじゃない?」


声は堅くなり過ぎないように、顔はちょっと困った感じに曖昧に笑って、それで、…それで?
本音を言うのって、なんでこんなに緊張するんだろう。
否定されるのがこわい。嫌われるのが、こわい。でも流されるのは、もっと、――。

ぐっと指先を丸めれば、くしゃり、カーディガンに皺が寄る。


「…前から思ってたけどって」


二人は一度何かを確認するように目を合わせ、再びこっちに視線を送ると、「あ、やっぱり」。 呟いた彼女の目線はわたしより少し下。…目も合わせてくれないんだ。思わず歯を食いしばる。


「もー、あんたその癖止めなよ」
「、え」
「もしかして気づいてないのー?って何か、緊張してる時とか?すぐ爪立てるんだよー?」
「今だってそーだし。そーゆーの痛いから止めなって。痕残ったらどうすんのバカ」
「……、え?」


言葉の意味がわからずに、ぱちり、ぱちり、ゆっくりと瞬きを繰り返すわたしに彼女たちは揃って溜息を吐くと、 ぺしり、伸びて来た手が机の上で重ねていたわたしの手を軽く叩いた。


「てかあんた無理して話合わせたり笑ったりする必要ないんだかんね?」
「秘密主義はんたーい。さみしーい」
「別に秘密主義ってわけじゃなくない?でもま、ってあんま自分のこと話さないし、 てか中学の話とか振ってもいつも上手く流すし?でもあたしだって抹消したい黒歴史とか色々あるから まーそんなもんかって思ってたんだけど」
「そー。うちらまじヤバイもんね。卒アル燃やしたーい」
「同窓会とか絶対行かないわー」


きゃっきゃと笑いながら中学の思い出話で妙な盛り上がりを見せる二人を前に、たぶん、 わたしは物凄い間抜け面を披露してるんだと思う。だって、え?ちょっと色々追い付いてない。
そんなわたしに気づいたのか、話の合間に、ぱき、ポテチを噛み砕いた一人が、「で、さっきのだけど」。 思い出したように言葉を繋ぐ。


「“鏡見て出直せ”って、あれ、中学の時に言われたんだよね」
「言われた言われた!で、超悔しかったから可愛くなって見返してやるってなってー、それでー、 二人揃って所謂高校デビュー的な?高校入るまでは如何にも勉強だけが取り柄ですって感じの地味系だったから 最初メイクの仕方とか全然わかんなくて大変だったよねー」
「取り敢えず盛っとこうみたいな?今思うとあれはなかった」
「同じ電車に中学ん時のバカ男が乗ってたからイケイケギャルになったアピールしたかったの」
「…、……じゃあ、さっきの、告白して来た他校生って、」
「「中学ん時のバカ男でーす!」」


重なった声と晴れやかな笑顔に、色んなものが吹き飛ばされた。
――なんだ、もっと早くちゃんと話してれば良かったのか。

それでね。と、楽しそうに声を弾ませる二人に、自然と口の端が上を向いた、刹那、


「ごめんちょっと匿って!」


突然響いた声と勢い良く飛び込んで来た姿に一気に意識が持って行かれた。
教室中の視線を独り占めにしたその人は、丁度わたしたちの机の横でさっと身を屈ませるとそのまま 何かから隠れるように丸くなったまま移動して、目が合えば人差し指を唇に押し当ててへらりと笑う。


「―、」
「今こっちにクロネコ来てない!?」


誰かが疑問符のついた言葉を発するよりも早く、開いたままの扉から緑のネクタイをかっちりと締めた先輩が 誰にでもなく声を掛けて来たので、わたしたちの視線は自然とその三年生へと向かい、 だけどきっと何人かはわたしが座っている椅子の後ろで小さくなっている二年生へ視線をやったのだろう。 眉を吊り上げた三年生の視線がゆっくりとこっちに流れて、


「ヤマト先輩ならさっき廊下猛ダッシュしてましたよ」


ポテチを片手に告げた彼女の言葉に先輩は力強く頷けばそのままスタスタと廊下を歩いて行ったが、 その方向に彼の捜し人が居ないことは教室中が知っている。


「猛ダッシュしてただけで別にそっち行ったとは言ってないのにねー?」
「あたし別に嘘吐いてないよね?」
「ないない」


マイペースな彼女たちに静まり返っていたクラスメートたちが一気に息を吹き返し、 わたしの後ろで身を潜めていた先輩もゆっくりと立ち上がったようだ。友達の目線が上にずれた。


「いやー、ありがと。助かったよ」
「ヤマト先輩また風紀委員長と鬼ごっこですかー?廊下走るなとか小学生じゃないのに」
「前は髪黒くしろって言われてましたよね」
「地毛ですって言っても信じてくれねーの。椎名の赤茶は一回も注意されたことないのに俺ばっかり」
「だって先輩一年の時は普通に黒かったんでしょ?二年の先輩が言ってましたもん」
「あ、ばれてた?」


からりと笑ったヤマト先輩は、「ちゃんもありがとな」。 特に何もしていないわたしにもお礼を言って出て行こうとするので、思わずきゅっとカーディガンの袖を掴む。
引っ張られて踏鞴を踏んだ先輩は振り返れば不思議そうに首を傾げた。驚かせてごめんなさい。


「ん?どした?」
「……あの、郵便屋さんに届けて欲しいものがあるんですけど」


進学校でありながらイベントには全力を注ぐ校風のこの学校には何かと変わったものが多いけれど、 その内の一つである郵便屋の噂は入学してすぐ耳に入ったし、彼が“それ”であることも知っていた。 …そう言えば先輩の本名って何だろう? わたしの依頼にヤマト先輩はにっこりと笑ってくれたので、わたしは一つ息を落として立ち上がる。


「ちょっと頑張ってくる」


爪を立てないように気をつけながらぐっと拳を握れば、 くるんとカールされた長い睫毛を揺らした二人が、揃って拳を握って送り出してくれた。



##



「お、しーな発見」
「…人の名前を間の抜けた呼び方しないでくれる?」
「そーゆーなって椎名くん。俺とお前の仲じゃん?てか何? 折角の昼休みに一人空き教室とかもしかして黄昏中だったり?邪魔してごめーん」
「うざ」
「くなーい!」
「……何の用?」
「流されるとそれはそれで寂しいんだけどま、いっか。はい、これ今月の分」
「ご苦労サマ」
「そこはお疲れ様って言うとこじゃね?」
「は?」
「いーよいーよ、俺はそんなぶれない椎名が好きだよ」
「きも」
「で、今日はそれとは別にお届けものでーす。―ちゃん」


名前を呼ばれて教室の中に入れば、不機嫌そうに眉を寄せた椎名先輩がわたしを見て少しだけ首を傾けた。
ヤマト先輩は一度わたしと目を合わせると、そのままひらりと手を振ってわたしの横を通り過ぎて行く。 ―ご丁寧に扉を閉めてくれる辺り、流石だなあと思う。


「で、なに?」
「……先輩、わたしの名前知ってますか?」
「…佐川だろ」
「そうです。…先輩、告白の返事に“鏡見て出直せ”ってどう思います?」


怪訝そうな表情をした椎名先輩はわたしの言葉に整った顔を僅かに歪め、「何が言いたいの?」。 よく通る声を真っ直ぐに放つ。


「先輩は中学の時も沢山ラブレターを貰ってたんで思い出せって言っても無理だと思いますけど、 玲さんと一緒にご飯した時に全部読んだって言ってたから。……だから、」


ふう。一度目を伏せて小さく深呼吸。大丈夫、大丈夫。


「その優秀な頭フル回転させて考えてください。これくらいの問題、椎名先輩なら解けますよね?」


真っ直ぐ放った言葉に彼は一瞬目を瞠り、そして、ゆるりと口角を持ち上げた。
――零れた吐息は、さて、?

くるりと背中を向けたわたしを、追う言葉はなかった。





***





宣戦布告!