耳に入る音がふとした瞬間雑音に変わる。日本語が理解できない。…あ、やばいな、


?」


夢から醒めたように思考の波が一気に遠ざかって行く。
あたしは何気ないふりをして目の前に座る友人の一人に焦点を合わせ、うん?と首を傾げた。


「だからさ、いい加減付き合っちゃえばって。あいつがのこと好きだってわかってんでしょ?」
「まあもう付き合ってるようなもんだよねー。二人すっごいお似合いって感じで」


―なんであたし、わらってるんだろう。
時々すごく自分で自分がこわくなる。耳を通り抜けるからっぽのノイズにも口の端は自然と持ち上がるんだ。

吐き出してしまいたかった塊を飲み込んでまで、ここにいる意味なんてあるのかな。



10/2



「あれ、さんまだ帰んないの?」
「、…友達、待ってて」
「友達?ああ、そういうこと」


情けない音が飛び出そうになるのをぐっと堪えて持ち合わせている答えを紡ぐ。
茜色に染まる教室に延びる影が一つになってから随分と経っていたから少し気を抜いていたようだ。
ゆっくりと首を回しながら、頼むから外れてくれよと早くも声の主を導き出してしまっている自分の不正解を願う。…残念ながら叶わなかったけれど。
あたしに注がれている大きな瞳は一瞬だけ尖ってすぐ元に戻った。

息が詰まりそうだ。なにをしたわけでもないのに酷く居心地が悪くて、できることなら今すぐ逃げ出したい。


一学期の真ん中、中途半端な時期に転校してきた椎名くんはあっという間にクラスを飛び越えて学校中の有名人になった。 彼についての噂話は数えるのが億劫になるほど飛び交っていてその殆どが信憑性に欠ける。 授業をサボってばかりいた井上くんや畑くんが教室にいる確率が高くなった理由が彼に関係しているのは事実だけれど。


「バスケ部だっけ?」
「え?」
「あいつ」
「…うん、バスケ部」
「上手い?」
「どうかな、わかんないや」
「試合の応援行ったりしないの?」
「行ったことないよ」
「でも誘われたことはあるんだよね?」


にいっと、椎名くんの顔に三日月が浮かぶ。かわいい。可愛い笑顔。
だけどあたしは、まず最初にこわいと思ってしまう。
椎名くんのことは嫌いじゃない。そもそもそんな感情を抱くほど彼との関係は深くない。
それなのにこわいと思ってしまうのは何故だろう。 直接なにかされたわけじゃないし、顔を合わせれば今みたいに一つ二つ話をする程度の関係。クラスメート。言葉にするならただそれだけ。





頭を耳を、あたし自身を覆っていた靄が一気に弾け飛ぶ。たった一言でぶわりと滲んでいた視界が色を取り戻した。


「て、呼ばれてるの?」
「…え、」
「あいつだよ。今待ってるあいつ」


あたしが彼をこわいと思う理由の一つはここかもしれない。
にっこり笑って他愛もない話をしていた筈の椎名くんはいつも突然あたしにチクリと針を刺すから――

転校初日に自分を天才と称しただけあって彼は頭が良い。
勉強云々の話だけじゃなくて、椎名くんは上手に生きて行く術を心得ているんだと思う。
だからだろうか。見透かされている気がしてしまう。
椎名くんの目にはあたしは透明で、どんなに言葉を飾っても表情を塗り固めても無意味なのだと、彼の顔にとっぷりと浮かんだ三日月の小舟があたしに訴えかけるのだ。


「ねえ、」


はっとした。いつの間にかまたあたしはあたしの中に閉じ籠っていたらしい。
知らぬ間に椎名くんとの距離は手を伸ばせば触れられる程に縮まっている。


「ぼくの話聞いてる?」
「聞こえてたよ」
「聞いてるのと聞こえてるのって似てるけど全然違うよね」


楽しそうに響く声がひたひたと沈んでとける。
逃げたい!一瞬で膨らんだ衝動を手のひらでぐっと握り潰して、気づかれないように細く息を吐いた。


さんって結構人の話聞かないよね。聞いてるふりは上手いみたいだけどさ」
「…時々聞き逃しちゃうことはあるけど、わざとじゃないよ」
「どうだか。ほんとは全部面倒だって思ってるんじゃない?誰とでも当たり障りのない関係でいたいが為に笑ってるだけで」
「……」
「黙んないでよ、ツマンナイなあ。それとも図星だった?」
「………ない、」
「なに?」
「椎名くんには言われたくない」

「自分だって、猫被るじゃない。都合良く上手に運んでけるように愛想振り撒くでしょう?」


パンと弾けた感情の正体はわからぬままに考える間もなく言葉を吐き捨てる。
口が勝手に動き出すってこういうことだったんだ。自分でもわけがわからぬままに捨てて捨てて捨てて、自分の声なのに耳に入るのは全部ノイズで日本語が理解できない。
だってわかんないよ。なんで周りが勝手に決めるの?皆が思うあたしじゃないといけないの?ほんとのあたしはどこいったの?あたしって、なに?

ぐらぐらぐるぐる。感情のメーターが大きく振れて自分じゃもうどうしようもないの。

毒を吐く舌は焼けたように熱い。見えるのは全部消えて行く太陽と同じ色。
今あたしなに喋ってるんだろう。椎名くんの口が何度か動いた気がするけど言葉に変換されない。
――ああ、こんなんじゃもう、あ


!」


頭を殴るような大きな音に知らぬ間に俯いていた顔が飛び跳ねる。はっきりと見える椎名くんの顔。
見上げる形になるのはあたしが自分の席に座っているからで、彼の両手は投げ出したあたしの両手を挟むように力強く机に着地したまま動かない。


「ぼくは別に猫を被ることが悪いとは言ってない。好きなだけ被れば良い」

「だけど自分を飾るのと自分の首を絞めるのとじゃ話が違う。それじゃ本末転倒もいいところだ」
「…」
は周りに流されてるのが好きなの?それとも嫌いなの?」
「…好きじゃ、ない」
「じゃあ違うと思ったことは否定しな。誰だって少なからず自分を演じてるけど、その舞台は誰のもの?誰の為?」
「……」
「自分を良く見せたいのは自分の為じゃないの?だったら他人が書いたシナリオまでわざわざ演じてやる必要なんてないだろ」


瞼の裏を星が飛ぶ。言葉で横殴りにされた頭は未だ正常に機能していないのか、日本語が上手く理解できない。
―なのにどうして。わなわなと震える拳に指先が触れた瞬間、ぜんぶがほどけた。


「、なんで…、」
「なんでただのクラスメートにこんなこと言うかって?」


こくりと頷けば椎名くんは笑った。…あ、こわくない。きっと彼の笑顔は変わっていないからこれはあたしの心境の変化だ。


「昔の自分見てるみたいでイライラしてたんだよね」
「…あたしが昔の椎名くんに似てたの?」
「そういうこと。…まあ、半分はそれだけじゃないけど」
「え?」
「なんでもないよ」



きみを照らす月になろう



開いた手のひらには小さな三日月が刻まれていた。