9月29日(土)
文化祭!
もう、すっごい楽しかった…!
***
頭の中のアルバムに、黒いボールペンで線を引く。
写真が破れるくらい、何度も、何度も。
あの頃のわたしは“わたし”じゃないから、違うから、もう誰とも連絡だって取ってない。
――それなのに、何で放っておいてくれないの?
「……ちゃん?」
「、え?」
「あ、やっぱり佐川ちゃんだよね?雰囲気変わったからちょっと自信なかったんだけど、あたし中学で一緒だった――」
遠くの雑音がぴたりと止んだ。
だけど、真っ直ぐわたしに注がれる言葉は何一つ理解できなくて、ただ、顔だけは何でもないみたいに笑ったんだと思う。
……わたし今、息、してる…?
当たり前のことをできている自信がない。
でもわたしに話し掛ける彼女は楽しそうに笑っているから、きっと笑えてる筈。…大丈夫、だいじょうぶ。
「でね、ちょっと聞いたんだけどここって、」
「そこの眼鏡のお嬢さん!」
「…え?」
「そう、君だよ君。話の途中ですまないが少し時間をもらっても?―実は今ミスコンに飛び入り参加してくれる
可愛らしいお嬢さんを探していてね。…そんな謙遜しないでおくれ。それともこう言ったイベントは苦手かな?」
「え、や…そんなことないです」
「それは良かった!詳しい説明は会場でするから、あちらの彼の案内に従ってもらっても良いかい?…っと、失礼。
一緒に文化祭を楽しんでいるお友達はどこかな?」
「今あっちに…あ、戻って来た」
「おやまあ、類は友を呼ぶとは言うけれどこれはこれは。初めましてお嬢さん方。ミスコンに興味はあるかな?」
――なに、この人。
まるでお手本みたいな笑顔を描いた唇から紡がれる独特の台詞回しに圧倒されて口を挟む暇もない。
そうして立ち尽くすわたしを一人置き去りにしたまま、目の前の会話はどんどん先へと進んで行く。
「お嬢さんたちの晴れ舞台を撮影するのが楽しみだよ。それじゃあ、またあとでね。案内頼んだよ」
「はい!では此方にお願いします」
「はーい。…あ、ちゃんじゃあね」
「、うん。ばいばい」
ふう。零れた吐息に緊張が溶けて、漸くちゃんと呼吸ができた。
「…さて、と。急にごめんね?」
去って行く背中にひらひらと手を振っていたその人は、くるりと振り返れば変わらない凛とした声を紡いだけれど、
さっきまでの芝居染みた口調ではなくなっていて思わずぱちりと睫毛を叩く。
「人の話を邪魔する趣味はないんだけどさー」
「……え、と…」
「あ、もしかして余計なお世話だった?」
「いえ、全然。…でも、……、わたし、変でしたか?」
「いや?普通に笑ってたよ?」
わたしの質問に彼女はあっさりと答えを返してくれたので、ほっと深い息が落ちた―刹那、
「君、作り笑いめちゃくちゃ上手いねー」
彼女が笑って爆弾を落とすものだから、口許がひくりと痙攣する。
「、ッ……、」
時間が止まったような錯覚。
だけど頭の中はぐるぐると煩くて、…ああ、もう、きえてよ。
わたしにしか聞こえない騒音を消したのは、「あれ?ちゃん?」。聞き覚えのある明るい声。
「あ、やっぱちゃんだ。一人?いつもの子たちは?」
「……中学の友達に声掛けられて、あっちで話してます」
「そかそか。そーいや前に二人は中学一緒だったって言ってたっけ」
「えっと、ヤマト先輩は一人でどうしたんですか?」
「俺は今仕事中でさ。…もー、先輩一人でふらふらすんの止めてくださいよー」
爽やかな笑顔から一転して困ったように肩を落として見せたヤマト先輩は、そう言ってわたしから視線を横に流す。
「ごめんごめん。懐かしくってつい、ね?」
楽しそうに笑いながら肩を竦めた姿からはどう見たって反省の色は薄いが、
ヤマト先輩は気分を害した素振りもなく、柔らかく息を落とすだけ。
まるでこんな反応には慣れているって言ってるみたい。
二人のやり取りをぼんやりと眺めるわたしに、「ところで」。ヤマト先輩から“先輩”と呼ばれた彼女が再び視線を注ぐ。
「ちゃんって言うの?」
「…あ、はい」
「へえ……良いね。私の一番好きな名前だ。ちなみに上は?」
「佐川です。佐川」
「………まじか。…うわ、うわー。何これすごい。私引き良過ぎじゃない?」
「…先輩先輩、俺は大丈夫ですけどちゃん意味わかんないっすから」
「あ、そっかごめん。んー……ちゃん、バイト先にっているでしょ?」
「、え?」
「私ね、―ちょっとそこのプリチーフェイスの椎名翼くーん?なあに人の顔見た途端背中向けてんのかなーあ?」
不意にわたしから視線を逸らした彼女は、にやりと口の端を片方だけ持ち上げたと思えばよく通る声を響かせた。
突然のことに驚いて、ゆっくり彼女の視線を追うように首だけで振り返ると、
「…あんた、相変わらず人の神経逆撫でするの上手いよな」
「君は相変わらずクソ生意気みたいだねー」
にっこりと笑顔を広げてツカツカと歩いて来る椎名先輩の向こうで、
前に一度見たことがある金髪の男の人がこの世の終わりのような顔をして隣に居る色の黒い人の肩を叩いているけど、
たぶん、似たような顔をしている人は他にも沢山いると思う。……わたしを含めて。
「そのクソ生意気なぼくをわざわざ呼び止めたんだから、それなりの用があるんだろうね?」
「え?無いよ?強いて言うなら、椎名くんの嫌がる顔が見たかったってとこかな!」
「……、」
「はいはい椎名くんちょっと待ったー。今なに言おうとしたのかな?物凄い凶悪な顔してるけどそれ口に出して良い系かなー?」
「ふはっ!ほんと、椎名くんすっごい顔!さいっこう!」
「ちょ、…もー、先輩も勘弁してくださいよー。久々に椎名で遊びたい気持ちはわかりますけど」
「は?」
「あ、わり、椎名。今のは失言。忘れて忘れてー」
「そかそか。そいや椎名くん、今は可愛い後輩ちゃんたちから王子様とか言われてんだっけ?
イケメン王子のらしくない姿なんて周りに見せるわけにはいかないもんねー?あっはは、ごめんごめん」
「だからっ、佐川先輩まじ止めてくださいって…!」
……わたし、笑顔をこんなにコワイと思ったの、初めてだと思う。
さっきから椎名先輩はずっと笑ってるのに、なんて言うか…絶対零度の微笑みって漫画の世界だけじゃなかったんだ。
いつだって飄々としているヤマト先輩まで振り回す彼女に何とも表現できない不思議な感情を抱いていれば、
かちり、ぶつかった視線の先で彼女がぱちりと片目を瞑る。
「あからさまだろうが上手かろうが、作り笑いなんてその気になれば簡単に崩せるんだよ」
「ッ、」
「そりゃお前は作り笑いのプロだもんな」
「うん、めっちゃ練習したし」
「…会長っ!」
「うす、パシリくんに椎名くん。元気?」
するりと会話に混ざったその人は、「相変わらずアキラに頭上がんねーのな」。
ぺしりと彼女の頭を叩いて楽しそうに口角を上げた。
「ねえ何で今私叩かれた?」
「仕事サボって後輩困らせてっからだろ」
「サボってないし。楽しい会話で素の表情引き出してんの」
眉根を寄せて首から提げたカメラに触れた彼女に、椎名先輩が貼り付けていた笑顔を剥がして眉を寄せる。
「…仕事?」
「あれ、知らない?この学校の写真関係担当してるのって佐川写真館なんだけど」
「……、は?」
「今日はお父さんが体調崩しちゃってさ、代理で私が来たってわけ。ってことで、はいチーズ」
カシャリ、響いた音と一瞬の光にレンズを向けられた椎名先輩が大きな目を丸くさせ固まったのは一瞬で、
すぐに状況を理解したのか眉間の皺を更に深く刻んで口を開き、はああ、大きな溜息を一つ。
「…もういい。疲れた。じゃーな」
くるりと踵を返した椎名先輩は、そのまま少し離れた場所で彼を待っていた人たちと合流すると、
何か声を掛けて来た金髪の人に一発蹴りを入れてそのまま人混みの中に紛れてしまった。
「あんなに疲れ切った椎名初めて見たわ」
「え?ほんとに?郵便屋ならどんな相手だろうが手のひらの上でくるくるっとできなきゃ駄目だって」
「頑張りまーっす!」
にかっと笑いながら敬礼をしたヤマト先輩に彼女が頷けば、その隣の男の人がからりと笑う。
「で、パシリくんは仕事戻んなくて良いの?」
「あっ!佐川先輩そろそろミスコン参加者の写真撮りに行かねーと!」
「もうそんな時間?はいよー、んじゃ行こっか」
「会長も一緒にお願いします。俺じゃ先輩制御できないんで」
「おいこら私はロボットか」
「てか俺もう会長じゃないぜ?」
「何かもう、生徒会長と郵便屋の鬼に金棒コンビの印象強過ぎて。とりま、まじで移動しないとなんでお願いしまーす」
「なにそのコンビ全然嬉しくないわー。…そーだ、ちゃん」
「へ?」
流れるような言葉の応酬に突然自分の名前が出たものだから、驚いて間抜けな声が出てしまった。
恥ずかしくて視線を泳がせるわたしの頭に、くしゃり、柔らかな手のひらが触れる。
「…うん。いっぱい頑張ったね。大丈夫、間違ってないよ」
離れて行く手のひらを辿った先で、くしゃり、少し歪だけど柔らかな笑顔。
「何かあったらいつでも佐川写真館まで連絡どーぞ。その時は是非とも佐川アキラをご指名よろしく!」
「あ、セクハラ」
「違うわ」
胸ポケットに落とされた温度に、じわり、滲んだ感情はなんだろう。
――ムズムズとする口角が、ゆっくりと上を向いた。
***
私だけじゃなかったんだ。