こんな筈じゃなかった。 ぐらぐらと揺れる頭の中は台風が直撃したように暗く渦を巻き、音と音が激しくぶつかり合っている。 こんな筈じゃなかった。 一つだけ言葉として理解出来た思考はそのままぐるりと時計の針を逆回転させた。 九月四日、午後三時 「え?来れないって、なん、…待って急にそんなん言われてもこっちだって色々――ッのばか切りやがった!」 ピンク色のスマートフォンに向かってイライラと声を荒立てた彼女は形の良い眉を吊り上げ、ぷっくりとした艶やかな唇をツンと尖らせる。 派手なメイクに彩られた友人の横顔をじっと見つめながら、やっぱり美人が怒ると迫力があるなあ、 なんてのんびりとマカロンを頬張った私に、ふさふさの睫毛に縁取られた大きな瞳が振り返った。 「ごめん。あいつドタキャンしやがった」 「いいよー。そうなるだろうなって思ってたから」 「…ちょっとそれどういうこと?」 ぐっとテーブルに身を乗り出した友人のセクシーな胸元に目を奪われたのは、それだけ彼女が魅力的だということで他意はないのだとご理解頂きたい。 ずずっと紅茶を啜る私の姿はどうにも彼女には勿体ぶっているように見えたようで、早くしろと視線で急かされた。 「実は昨日ですね、うっかりスーパーで遭遇しちゃったんですよ」 「……まさか、」 「そのまさか。いつも通りすっぴんジャージ眼鏡で買い物カゴ持ってふらふらーっとしてたとこをね、 『さんですか?』とか背後から声掛けられたもんだからうっかり振り返っちゃった」 「うっかりじゃないわよばか」 「だって名前呼ばれたんだもん」 「可愛く言ってもだめ。…それで、一応聞くけどその後どうしたの?」 「『この前会った時と雰囲気違うけど、いつもこんな感じなの?』って聞かれたから、『そうですねー』って答えたよ」 「…このっばか!そこは嘘でも否定しなさいよてか否定しろばかっ!」 「ごめーん」 軽い謝罪を口にしながら二個目のマカロンに伸ばした手はぺしっと軽い音に叩かれる。 …これは中々に不機嫌なお顔で。むっと膨れた彼女にどうしたものかと苦笑い。 「遅かれ早かれこうなったと思うんだよね。寧ろ、付き合おうってなる前で良かったんじゃないかと」 「またそんなこと言って。そもそもあいつも何なの?確かにあんたは普段気抜きまくりで女子力ゼロよ? でもはメイクしてなくたって可愛いし人と会う時は流石にジャージ着たりしないわよ! それなのにほんっとばっかみたい!もう二度とあいつなんか相手にしないんだからっ!」 「絶妙なツンデレをありがとー。でも彼にも色々あるんだろうし、そう怒らずにこれからもお友達でいてあげよーよ」 「何よ。あたしよりあいつの肩持つの?」 「違う違う。私は彼氏なんていなくても、君がこうして構ってくれるだけで十分だよって話」 「…今度こそを男っ気のない生活から抜け出させようと思ったのに。でもま、しょうがないわね」 ふう、と肩の力を抜いた彼女はマカロンに伸びた私の手を叩くことはなく、 お許しを頂けたのでもぐもぐと頬張る私にちらりと視線を寄こし、「美味しい?」。首を傾げる。 「安物と違って上品な甘さだよ。はいあーん」 「ん、…ほんと、美味しい」 「でしょう?ほら、もっとお食べ」 お皿に残ったもう一つも目の前の可愛いピンク色の唇に運んで、雛鳥のようにもぐもぐと咀嚼する姿に目を細めた。 見た目は派手な美人だけど、ちょっとした仕草が本当に可愛い彼女は私にとって自慢の友人なのだ。 マカロンのような女子力の高いお菓子だって、私に食べられるよりも女子力の塊みたいな彼女に食べられた方が幸せだろう。 良い仕事をしたなあと指先を紙ナプキンで拭っていると、細くて長い指先が私の手に重なる。 「どしたの?」 「この後の予定なくなったじゃない?」 「おー、そだね」 「今日は一日空けときなさいって言ったけど、ちゃんと空けといた?他に予定入れてない?」 「入れてないよー」 「そう。それじゃあ今日はたっぷりあたしに付き合ってもらうから」 あら可愛い。うっとりと微笑んだ彼女に断りの言葉を突き付けられる人がいるのなら見てみたいものだ。 あーほんと、私の親友は美人だなー。 九月四日、午後七時二十三分 「お嬢さんや、ばあやはもうくたくたですぞ」 「もうちょっと。ほら、あれとか絶対似合う!」 「もういいよー。着せ替え人形は疲れたよー。私の服ばっか見てないで自分の探しておいでよー」 「もー。しょうがないわね。じゃあこの一着で最後にしてあげる。はい、さくっと着替えた着替えた」 「うへーい」 御座なりな返事をして押し付けられたワンピースごと再び試着室に引っ込む。 今のやり取りが何回目だったのかは覚えてないけど、今度こそ本当に解放してもらえそうだ。 「着れましたー」 いそいそと着替えを済まし、可笑しなところはないか鏡でさくっと確認してからカーテンの向こうに声を投げるも、 返ってくる筈の声は待てど暮らせど届かない。もしや他に気になる服でも見つけたんじゃ…。 あり得なくはない想像にそうっとカーテンを開けて友人の姿を探す。―いた。 「そんなこと言わないでさー。友達も一緒で良いから」 「だからさっきから行かないって言ってるでしょ。しつこいんだけど」 私の友人は親友の欲目を抜きにしても美人で、街を歩けば何人もの男性に声を掛けられる。 だからあしらい方も上手いのだが、これはまた一段と厄介なナンパ野郎に絡まれたようだ。 早く助けに行かなくちゃと思いつつも流石に会計を済ませていない服を着たままショップの外に出るわけにはいかず、 慌ててワンピースを脱いで元の服に着替え、勢い良くカーテンを開けて彼女の許へと駆け出した私だが、私が彼女に声を掛けるより先に別の声が割って入った。 「さっきから見苦しいんだけど。いい加減相手にされてないことくらい気付きなよ」 九月四日、午後八時五十分 「世の中の男がみーんな椎名さんみたいだったら良いのに」 「俺?」 「そうですよ。椎名さんは人を見た目で選ぶようなばか男じゃないでしょう?」 「ほんとズバズバ言うよね」 「さっきの椎名さんも随分だったと思いますけど?」 「ははっ、お互い様か」 この冷やしトマトいまいちだな。ざらついてる。 ナンパ野郎を撃退してくれた椎名さんは友人に引けを取らない整った顔立ちの人で、 「何かお礼をさせてくれないか」と告げた彼女に「それじゃあ美味しい酒が飲める場所を教えてくれ」との言葉を受けて今に至る。 お酒は嗜む程度というか居酒屋に行った時くらいしか飲まない私だけれど決して弱いわけではなく、 友人が選んでくれた梅酒も三杯目が空きそうだが思考回路は至って正常。システムオールグリーン。 同じ量のアルコールを摂取している友人の頬にはチークとは違った赤みが差して、大きな瞳もとろんとしている。 私が強いというよりは彼女が弱いんだろう。楽しいお酒が好きな彼女は、悪酔いをするタイプではないので安心だ。 トマトは私好みではなかったがお酒は勿論焼き鳥は絶品で、 空いたお皿を重ねて机の端に寄せては新しい串に手を伸ばす私は誰が見てもご機嫌に映るだろう。 ―何より、美男美女と囲む食事はいつも以上に美味しく感じるものだ。 初対面にも関わらず早くも意気投合している二人にほくほくと胸が温まるのはアルコールの力だけではないだろう。 「ちょっとー、聞いてんの?」 「へ?」 「もー。ね?椎名さん。この子いっつもこんなんで。そんなんじゃいつまで経っても男出来ないんだからねー」 「ごめんなさーい。でも君が構ってくれるでしょう?」 「当たり前じゃない。あんた一人くらいあたしが養ってあげるわよ」 「あ、そこまでしてくれるの?頼もしい親友を持って幸せですよ」 「でももしあたしが結婚して海外にでも行っちゃったらどうすんの?誰と結婚すんの?」 「ふはは、そうだねー。じゃあその時は、隣にいた人に『結婚してください』ってお願いしてみるよ」 「まあたそんなこと言ってー。変な野郎だったらどうすんのよもう」 「大体はね、」。ほろ酔いの彼女はいつもこういったお小言を私に注ぐので対応にも慣れたものだ。 私ほんと愛されてるなあ。緩みっぱなしの頬をそのままに眠たくなったのか私の肩に凭れて目を閉じた彼女の頭を撫でていると、「っふ、」。堪え切れないといったように斜め前から音が転がった。 「彼女、いつもこうなの?」 「そうですね、よくある流れです」 「ふうん。さんのこと大好きなんだね」 「我ながら果報者だと思ってます。私が男だったらとっくに『結婚してください』って土下座してますもん」 「土下座までするの?」 「はい。おでこ擦り付けて。―あ、すみません梅酒お願いします」 頷けば、彼は端整な顔をくしゃっと崩す。 どうやらツボに嵌ってしまったようで、クツクツと肩を揺らし口許を押さえた彼は、 私が四杯目のグラスを空け終える頃にもまだ苦しそうにお腹を抱えていた。 九月四日、午後十一時 「すみません、お礼だって言ったのに半分以上出してもらっちゃって」 「良い店紹介してもらったお礼だよ。俺としては全部出したいくらい」 「流石にそれは申し訳ないので。ほんとに今日はありがとうございました」 毎度のことながらすっかり出来上がっていた友人とは路線が違うので数分前に別れたが、 帰省本能はしっかりしているし他人に迷惑を掛けたことは一度もないので今日も無事に帰宅出来るだろう。 今はこうして、偶然にも方向が同じだという椎名さんと並んで電車を待っている。 「…そういえばさん、普段ジャージで買い物行くんだって?」 「う、わあ…聞いちゃいました?」 「聞いちゃいました」 「じゃあ答えちゃいますけど、近所のスーパーくらいならすっぴんジャージで行きますよ。 更に言うなら一人でちょっと出掛けるだけなら服はちゃんとしますけどすっぴん眼鏡で余裕です」 嘘を吐くことでもないし、何より椎名さんの口振りからは嫌な感じはしなかった。 友人には怒られるかもしれないが繕うことなく答えると、彼は一瞬きょとんとし、それからまた、くしゃっと相好を崩す。 「さんって正直だよね」 「椎名さんは笑い上戸ですね」 目じりに滲んだ涙を拭う彼は、笑うと印象が幼くなるらしい。 そんな発見とともに目の前の笑顔に釣られるように吐息が零れた。 するり、頬を撫でた手を振り払おうと思わなかったのは、少なからず私も酔っていたからか。 「…、……」 「ごめん」 形の良い唇がゆっくりと言葉を辿る。 ぱちぱちと瞬きを繰り返して、指先で自分の唇に触れた。 「…っあ、」 理解した途端、ぶわあっと身体が熱くなる。 私は、今、なにを……? 「、大分酔ってるみたいですね。あっ、私ちょっと用事思い出したんでここで」 「待って!」 勝手に動く口に従って言葉を放ち慌てて踵を返そうとしたが、ぱしっと腕を掴まれてたたらを踏んだ。 …だって、どうして? こんな筈じゃなかった。 ぐらぐらと揺れる頭の中は台風が直撃したように暗く渦を巻き、音と音が激しくぶつかり合っている。 こんな筈じゃなかった。 急激にアルコールが回ったのか、頭の中で饒舌な私がぐるぐると色んな言葉を捲し立てるけれど理解が追い付かないままだ。 「…ごめん。信じてもらえないかもしれないけど、でも、酔った勢いだけじゃないから」 「……どうして、だって、あの子の方が綺麗で、…あの子じゃなくても、椎名さんに釣り合う人は私じゃなくて、」 「釣り合うとか、そういうんじゃなくて。俺が、さんが良いんだよ」 「でも、」 「さんの気持ちも考えないで勝手にキスしたのは謝る。ごめん。だけど、これだけは信じて。 目の前にどんな美人を連れて来られても、俺はさんを選ぶよ」 「だから、さんさえ嫌じゃなければこれから先も隣にいさせて欲しい」
「ねえ。ずっと隣にいるんだけど、いつ結婚してくれんの?」
くしゃっと笑った彼にそんなことを言われるのは、私の知らない未来の話。 -------------------------------------------- 知らぬ間に結婚相手が決まっていた女子力の低い女の人のお話。 2013年度テーマ「君を包む」、9月4日(火)「オークションの日」、仮お題「君に誰より高値をつけてあげる」 Special Thanks*みなさん +++ 「stray cat」のみなさん主催企画サイト「0419」の2013年度に提出させていただいたお話です。 |