どこまでも追いかけてくる蝉の声と頭の中までどろりと溶かしてしまうような熱に知らず知らず急かされる足は、 少しでも体感温度を下げるべく目に付いたビルの自動ドアを潜る。
ひやりとした空気に一つ、熱を帯びた吐息を逃がした。



8/8



高校に進学して初めての夏は例年と大差なく、学校が別れたにも関わらず中二の頃から連むようになった面々と
未だに顔を合わせる機会が多いのがその感覚に拍車を掛けているんだろう。
元サッカー部を除く中学のやつらとは殆ど連絡を取っていない。
時折アドレスが変わったとお決まりのメールが届くことはあるが、返信どころか登録をし直すこともしていないので、つまりはそういうことだ。

一つ惜しいと思うのは、彼女との繋がりが断たれてしまったことか。

何かと目に掛けていた同級生とは結局中学を卒業する時になっても友人と知人の曖昧なラインを行ったり来たりしていたように思う。
追い詰めるとするりと逃げて行くものだから、向こうから寄って来るのをのんびり待っていたらこのザマだ。
彼女がどこの高校に進むのかは人伝に聞いたので知っていた。
そして恐らく、彼女もぼくの進学先を似たような経緯で耳にしていただろう。それなのに――、


「やっぱり薄情だ」


アドレスくらい聞きに来い。彼女になら迷うことなく教えたのに。
辿り着いた感情に舌を打つのは何度目だろう。
だってぼくは、彼女に恋心は抱いていない。お気に入りであるのは間違いないし、 ぼくを見て揺れる彼女に対し優越感に似た感情こそ抱いていたが、ぼくにとって唯一の女性は昔から変わらない筈だ。
そう思っていたから自分からは動かずに彼女が動くのを待っていた。――実に傲慢な話。

まあ、手を出すと逃げるからってのも嘘じゃないけど。

形だけ広げてはいたが全く目を通していなかった雑誌を棚に戻す。そろそろ本屋で涼むのは限界か。
心なしか増えたように思う店員の視線に振り返って愛想笑いを向ければ ぎょっとしたように肩が跳ねる姿に少しだけ気分が晴れた。今度来る時は何か買うよ。

漸く汗が引いたところで灼熱地獄に戻る気にはなれず、そういえば小腹が空いた気がするとエスカレーターを下りる。
食事時ではないので疎らな人の中のんびりとチェーン店の看板を端から眺めていれば、ふと鼓膜を撫でる声。
はっと視線を流した先、落とさないように気を付けてと唇を動かしながら子供にアイスを手渡す姿に刹那、音が消える。

止めてしまった息を吐き出す頃には当たり前のようにざわめきは戻り、ぼくは口の端がむずむずする感覚にきゅっと唇を噛んだ。


「いらっしゃいませー。ご注文はお決まりですか?」


それこそお決まりのフレーズと慣れたような笑顔を向ける店員にこちらもにっこり笑って、 「あっちのお姉さんのオススメで」と告げれば期待を裏切らず笑顔のまま固まってくれたのでぼくの機嫌は上がるばかり。
動かなくなってしまった店員から目を逸らさずゆっくりと頭を傾けると、 彼は慌ててぼくに少し待つように告げてから今し方客の相手を終えた彼女に潜めるように身を寄せた。 …何となくイイ気はしないがここは目を瞑ろう。


ちゃんあのお客さん知ってる人?」
「え?」


男性店員の陰からちょこっと視線を覗かせた彼女は、「―、え?」。 もう一度同じ音を零してぱちぱちと睫毛を揺らした。


「……。…え、翼くんなにしてるの?」
「客に向かって随分な物言いじゃない?」
「え?あ、…いらっしゃいませ」
「はい、いらっしゃいました」


驚愕の抜けない彼女の様子に余所行きではない笑みを浮かべると、 ぼくたちを知り合いだと判断した店員が「この人ちゃんのオススメ食べたいんだって」と 仮にも客の前だというのに砕けた口調で説明を添え奥へ引っ込むものだから彼女は益々驚いたように目を丸くする。


「えっ翼くんアイス食べるの?」
「…どういう意味?」
「どういう意味だろう…?」
「ちょっと、こっちが聞いてるんだけど」
「うん、ごめんちょっとびっくりしてて、……うわあ、久しぶりだね」
「ちなみにその うわあ はどういう意味?」
「…良い意味?」
「さっきから疑問符ばっか」


あからさまに溜息を吐いてみれば視線の先の彼女は眉根を寄せ曖昧に口角を上げる。

実を言うとぼくは、彼女との距離感が好きだった。
近づくと逃げるのに足を止めると慌てて振り返る様が酷く心地良くて、 追い詰める時はぎりぎりまで逃げ場なんて与えなかったし、何度でも振り返らせたくて敢えて立ち止まったりもした。

きっとぼくは、独り善がりな駆け引きに酔っていた。


「翼くん…?」
「…、…ごめん、聞いてなかった。何?」
「シングルとダブルどっちにする?ダブルだと今キャンペーン中だからもう一個つくよ?」
「じゃあスモールダブルで。カップとコーン選べるんだっけ?」
「うん。コーンの場合値段は上がるけどワッフルにした方が落とさなくって安心かな」
さんって結構商売上手だね。バイト長いの?」
「ううん、夏休み入ってからだからまだそんなに。知ってる人相手だとすらすら言えるんだけどね」
「……知ってる人、ね。」
「、え?」
「ワッフルコーンでお願い」


変わらないこの距離を、一体ぼくはどうしたいというんだろう?


「じゃあフレーバー三つ選んでください」
さん選んでよ」
「…それ本気だったの?」
「勿論。さんはどれが好き?」
「んー、定番なのはジャモカコーヒー。あとは…キャラメルリボンもナッツトゥユーも好きだし、あ、今ならクリームソーダとか。夏っぽいしあたしは好きかな?」
「じゃあそれで」
「ええと、今のだと一個多いんだけど、どれ止める?」
「そうだな…、…ねえ。その赤いのってイチゴ?」
「ううん、イチゴはあっちので、それはラズベリーとホワイトチョコレート。甘酸っぱくって美味しいよ。気になるなら食べてみる?」


そう言って彼女は試食用のスプーンで手早くアイスを掬い、ガラスケース越しにぼくへ差し出す。
手を伸ばそうとすれば、ふわり、零すような笑い声。


「なに?」
「うん。可愛い名前だから翼くんに合うなあって」
「…ねえ、それどういう意味?」
「あっごめんなさい。全然全く悪い意味じゃないですほんとに!」
「ふうん?――俺に言わせればそれ、可愛いなんてもんじゃないと思うけど」
「え?…ッ、!」


差し出された彼女の手ごとスプーンを掴み、逃げようと震えた手を強引に奪って唇を寄せる。
恋の媚薬だなんて、冗談じゃない。
舌の上を転がる冷たさと甘酸っぱい香りにくらくらと酔い痴れながらかりっとハートを噛み砕いて前髪の隙間から彼女を窺えば、目じりを赤く染めたさんがゆらゆらと俺を見つめていた。



あなたの香りに誘われて



囚われたのはどちらでしょう?