8月4日(土)

自分の名前に好きも嫌いもなかったけど、
今日初めて、ちょっと……






***





夏休みを機に始めたアイスクリームショップでのバイトは、まだ研修中で覚えることがいっぱいある。
「腱鞘炎になるよ」。面接の時に店長から笑いながら言われた時はちょっとした冗談だと思っていたけど… そんなことなかったよね。


「ごめんな急にお願いしちゃって。いやー、通しで連勤してたら腱鞘炎になっちゃってさー。 まあ何とかなるだろって思って来たんだけどやっぱ無理だったわ」


へらりと笑った彼はわたしの三つ上で、高一の時からここでバイトしているそこそこベテランさんだとか。
そしてわたしの教育係の一人でもあるんだけど、彼に一番最初に教えてもらったことは仕事内容とは一切関係のない 個人情報で、この前入ったばかりの新人さんにも同じ情報を伝えていたのでどうやら今も彼女募集中らしい。 頑張ってください。

「今度何か奢るから」。と言って笑顔の中に申し訳なさそうな色を滲ませた先輩に、 「アイス以外でお願いします」。と返して手早く支度を済ませて売り場に出れば、 既に準備を始めていた先輩スタッフさんが振り返っておはようと微笑んだ。


「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。通しは初めてだっけ?一緒に頑張ろうね」
「はい、頑張ります!」
「うん。わからないこととか困ったことあったら、あたしや店長にいつでも聞いてね?」


わたしの一つ上の彼女はバイトを始めて一年程らしいけど、手際が良くて接客態度も花丸だと店長と教育係の先輩が 太鼓判を捺していたし、何よりいつも笑顔で優しいので、彼女と一緒のシフトを実はこっそり楽しみにしている。
…というか、今日入ってるのが彼女じゃなかったら、用事があるのでって断るつもりだったし。


「今日は天気も良いから結構混むと思うよー。二人とも気合い入れてよろしく」


店長の勘はよく当たるらしいので、足を引っ張らないように頑張らないと。



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「店長の言う通りだったね。この時間は殆どお客さん来ないし、あとちょっと頑張ろう」
「はい。……すみません、わたし全然で…」
「え?そんなことないよ。レジミスないし、注文だってメモ取らずにすぐ覚えてくれたから助かったもん」
「ありがとうございます。先輩ずっとディッシャー握ってましたけど、手大丈夫ですか?」
「うーん、疲れたけど、でももう慣れちゃった」


夏休みで休日というだけあってオープンしてから続々とお客さんが来るので、 休憩はしっかりもらっていてもやっぱり疲れが出てしまう。 でも、笑顔が引き攣りそうなわたしとは違って先輩は相変わらず花丸笑顔。 慣れればわたしもこうなれるのかな?アイスを掬う道具であるディッシャーを拭きながら、 お客さんが居ないからとクローズの準備を始めている先輩を盗み見る。


「…あの、先輩。あとでメアド教えてもらっても良いですか?」
「いいよー。そう言えばまだ交換してなかったね」


にこりと笑う彼女に嬉しくてこっちまで自然と笑顔になる。

中学時代に女子特有の縦社会はしっかり染み付いたけど、他校の先輩ってのはまた別だ。
バイト以外でも仲良くなれたら嬉しいなー。なんて、ひっそり欲張りなことを考えるわたしに、 「いらっしゃいませー」。もう聞き慣れた先輩の接客用の声。
慌ててわたしも接客モードに切り替えて、「いらっしゃいませ」。と、お客さんへ向き直る――え、


「ご注文はお決まりでしょうか?」
「スモールダブルのカップで、ジャモカコーヒーとラブポーション…今ってトリプルにできるんだっけ?」
「はい」
「じゃあシーズンフレーバーから店員さんのオススメで」
「かしこまりました。ドライアイスはお付けしますか?」
「お願い。もうクローズだろ?何時上がりだっけ…三十分ので平気?」
「あ、うん大丈夫…です」
「ちょっと店員さん、素になってるけど?」
「…失礼致しました。ではあちらでお会計をお願いします」
「はいはい」
「レジお願いね」
「、はいっ」


何とか返事をしたものの心臓は嫌な音を立てていて、ボタンを押す指が震える。
…だって、何、今の、なに?


「丁度お預かり致します」


何度も繰り返した操作だからか間違えることなくスムーズにお決まりのやり取りを終え、 最後にレシートを渡して終わりというところで、「あれ?」。 わたしの顔をじっと見つめたお客さん―椎名先輩が今気付きましたとばかりに口を開いた。


「お前ここでバイトしてたの?」
「…はい。夏休みに入って始めたんで、まだ全然なんですけど」
「ふうん。先輩に苛められてない?たとえば…その人とか」
「ちょっと翼くん、変なこと言わないでよ」
「ぼく今お客様なんだけど?」
「お客様は神様じゃないからね」
「ははっ!そりゃそーだ。あ、スプーン二つ付けてくれた?」


差し出された袋を覗き込む椎名先輩に、先輩は一つ息を落としてから笑って頷く。
…アイスは一個で、スプーンの確認なんてしてなかったのに……。
当たり前のようなやり取りが何を表すか気づけない程、鈍感ではなくて、


「…あ、。帽子曲がってる」
「ッ、」


ぴくり、跳ねたのは心か身体か。
口の端で笑った椎名先輩が先輩の帽子に手を伸ばす。


「え?…ごめん。ありがと」


突然呼ばれた名前に反応して咄嗟に帽子を押さえそうになったわたしは、 二人の姿に中途半端に持ち上げた手をそっと元の位置に戻したけど、そんなちょっとの動きに椎名先輩は気づいてしまったらしい。
目が合って、気まずさに思わず逃げたのはわたしだ。


「…そう言えばお前もなんだっけ?」
「え?佐川さんって下の名前そうなの?…わ、すごい!あたしもなんだ。一緒だね」
「……待って。名字佐川なの?まじで?」
「あ、はい。佐川です」
「…うわ、ほんとだレシートに佐川って書いてある」
「翼くん、人の名前聞いてそんな顔しないの。失礼だよ。―ごめんね佐川さん、えっと、あたしの従姉の名字が 佐川で、去年まで二人と同じ学校にいたから…」


―あぁ、そう言えば初めてシフトが一緒になった時学校の話になって、そんなこと言ってたっけ。
ぐるぐる、ぐるぐる、先輩の声がぐにゃりと歪んで全身を這う。
並べられる説明と同時にすっかり薄れていた情報を引っ張り出してみるけれど、今はそんなことより、


「…あの、先輩たちって付き合ってるんですか?」


声が震えないように、ぎゅっと手のひらに爪を食い込ませる。
わたしの質問に二人は目を合わせて、――。ああ、もう、その顔が答えだ。頭が痛い。


「椎名先輩うちの学校の王子様なんで、先輩が彼女だってバレたらちょっと大変なことになりそうですねー」
「そうでもないだろ。彼女がいるってのは隠してないから知ってるやつは知ってるし。 …ま、でも面倒だからがここでバイトしてることは黙っといてくれる?」
「お店に先輩目当てのお客さんが殺到しちゃいますもんねー。大丈夫です、内緒にしときますから」
「え、待って翼くん王子なの?」
「なに?」
「ごめんなさい何でもないです」
「あっそ。じゃあいつものとこで待ってるから終わったら来いよ」
「うん、ありがとう」
「お前もお疲れ。あとちょっと頑張んなよね」
「はい、頑張ります」


わたし、今、いつもみたいに笑えてる?
遠ざかって行く先輩の背中に、きゅっと唇を噛んだ。





***





なんで自分だけ幸せになってんの?