7月15日(日)
もうすっごいびっくりした…!何で先輩家来るの!?
体操着じゃなかっただけマシだけど普通に部屋着だったしもう!
***
「………、え?」
目が覚めて階段を下りて洗面所で顔を洗ってご飯でも、とリビングのドアを開けたわたしは予想外の光景に物の見事に固まった。
そういえば廊下に楽しそうな声が漏れていた気もするけど、お母さんがテレビでも観てるんだろうなって特に気にしてなかったのだ。
数分前の自分におばかっ!とツッコミを入れたいができる筈もなく、
ただ、リビングに顔を出す前に洗面所に行くことを選んだ点は褒めてあげよう。
と、現実逃避するわたしの思考を現実に引き戻したのは、鈴の音のような声。
「こんにちはお姉さん。おじゃましております」
「…こんにちはヒメちゃん」
ソファーから立ち上がって綺麗にお辞儀をしたお人形のような女の子は、
わたしがあいさつを返すととっても可愛く微笑んでまたソファーに腰を下ろした。
フローリングに届かない両足をぷらぷらさせずしっかり揃えているところに育ちの良さが滲んでいる。
レースをあしらったワンピースがとてもよく似合うヒメちゃんは、近所じゃちょっとした有名人。
彼女に纏わる伝説というか武勇伝というか、とにかく色々あるけれど割愛して、
今は取り敢えず彼女がお金持ちの家のお嬢様であることだけ知っていれば良しとしよう。
…こんな風に語り口調になっている辺り、まだわたしは現実と向き合いたくないんだろうな。
――だって、
「ここお前の家だったんだ。悪いね、急にお邪魔して」
「…いえ、気にしないでください」
「それにしても学校と雰囲気違うから一瞬気づかなかったよ」
「そう、ですか…?ちょっと恥ずかしいですねー」
そりゃそーでしょう。
学校では控え目ではあるけどメイクしてるし、寝癖が残らないように早起きしてシャンプーして、全体的に綺麗にしてるからね…!
それに比べて今のわたしは、Tシャツにショートパンツでスッピンだもん。
…あ、軽く梳かしただけだから多少寝癖もあるかもしれない。もうやだ消えたい。
あははは、明るく笑いながらも頭の中はぐしゃぐしゃで、寝起きドッキリ許すまじ…。と只管呪いを呟くばかり。
そもそも何で椎名先輩がこんなとこにいるの?意味わかんない。
説明を求めようと息を吸ったが、吐く前に慣れた声が響く。
「あらやっと起きたのね。もう、お寝坊さんで困っちゃうわ。―はい、ヒメちゃん翼くん。良かったらどうぞ」
「…おばさま、もしかしてこれ駅前の……たくさん並ばないと買えないって、サエキが言っていたわ」
「流石ヒメちゃん。見ただけでわかるのね。ここのマカロンとっても美味しいでしょう?
ヒメちゃんのお口にも合うと良いんだけど」
「はい、だいすきです」
「良かった。沢山食べてね?」
「ありがとうございます。いただきます」
「はい、召し上がれ。…翼くんは甘い物大丈夫?」
「大丈夫です。すみません、わざわざ」
「良いのよー。丁度沢山あったから」
「ありがとうございます。いただきます」
お母さん、そのマカロンって昨日お父さんが一生懸命並んで買って来てくれたのじゃなかったっけ?
今日みんなで食べようって話してたと思うんだけどなー。
「ほらほらちゃんもいつまでも立ってないで、こっちへ来て一緒にいただきなさい」
「……」
………“ちゃん”だと…?
にこにことお上品に微笑む実の母の姿に鳥肌が立ちそうだ。
…そう言えばお母さんジャニーズとか好きだし……うん。色々とツッコミたいところはあるけど、なんかもう…いいや。
複雑な感情とともに溜息を飲み込んで、多分紅茶が入っているだろうカップが置かれた場所に腰を下ろす。
あ、わたしはソファーじゃなくてフローリングなんだ。とか、
このカップとお皿っていつも飾ってて殆ど使ったことないやつじゃん。とか、
やっぱり色々浮かんだけど、紅茶と一緒に飲み込んだわたしに、更なる爆弾が落ちる。
「それじゃあちゃん、あとお願いね」
「、え?」
「ママちょっとこれから行かなきゃいけないとこがあるのよ。お夕飯までには帰って来るから、ね?」
「……や、…え?」
「二人ともバタバタしちゃってごめんなさいね。ゆっくりしていってね」
―母よ、あなたの娘は突然の無茶ぶりに吐きそうです。
でも、表面上では愛想良くにこにこして、「行ってらっしゃい」。と言えちゃうんだから、
やっぱりわたしはお母さん似だな、と一人ひっそりと納得してしまった。…あーあ。
残されたわたしは改めて現状を把握すべく、小さく息を吸い込んだ。
「そう言えば、二人はどうして家に?」
先輩には敬語使わなきゃだけどヒメちゃんには違うし、あーもうメンドクサイ!
口の中でブツブツ本音を噛み千切る。
「今日はサエキが体調を崩しておうちに来られなくて、パパもママも代わりを探そうとしてくれたんだけれど、
ヒメが大丈夫って言ったの。それで、ちょっとお出掛けしたくなってエリーと公園に行ったんだけれど、そしたら…」
両手で抱えていたカップを音を立てないように丁寧にソーサーに置いたヒメちゃんは、
とても年長さんには思えない程しっかりと話を始めてくれたけど、不意に口を噤むと悲しそうに目を伏せた。
うわ、ほんと美少女。思わず息が漏れそうになったのを気合いで押し戻し、どうしたの?と言うように首を傾げる。
ふるふると長い睫毛を揺らしたヒメちゃんは、わたしの顔をじっと見つめて、すぅ、と息を吸い込んだ。
「エリーがゆうかいされちゃったの」
「……え、と、誰に連れて行かれちゃったのかはわかる?」
「わかるわ。公園にね、ヒメによくイジワルする子たちがいたの。ヒメがお金持ちで色々ゆうぐうされてるから
ねたんでるのよ。知ってるわ!」
「…そっか。うん。―それで、先輩は?」
「あぁ、用事があってこっちに来てたんだけど、公園の前を通った時に子供が騒いでる声がしてさ。
見に行ってみたらこの子と、あと同じくらいの歳の男の子がいて、声掛けたらこの子以外は逃げたんだけど…
様子が様子だったから気になって。どうしたのって聞いたわけ。で、エリーが誘拐されたって言うから
逃げてったやつら追い掛けようかと思ったんだけど…」
「ヒメ、こわくて…翼くんと離れたくなかったの。それでね、一緒に居たらおばさまが声をかけてくださって、
おうちに招待してくださったの」
「…」
お母さん。ちょっとねぇお母さん?
自分で招いておいて後は娘に投げるって酷くない?気持ちはわかるけどさ、バカ!
わたしの心中を知ってか知らずかヒメちゃんが、「ご迷惑をおかけてしてごめんなさい」。なんて言うものだから
反射的に「そんなことないよ!」と言葉を返す。
…というか、ヒメちゃんと先輩が並んでるとほんとにお姫様と王子様みたい。
これでヒメちゃんがもっと大きければお似合いってやつだろう。
もやもやとする頭を小さく振って、わたしはにこりと口を開く。
「ヒメちゃん、その子たちのお家がどこにあるかわかる?わたしが取り返して来てあげる」
「…でも、お姉さんがイジワルされちゃうわ」
「大丈夫。エリーちゃんって、確かヒメちゃんといつも一緒にいるウサギさんだよね?
大事なお友達だって、前にわたしにも紹介してくれたでしょう?わたしも心配だから、早く助けてあげたいな」
「……お姉さん…」
うるうると大きな瞳を揺らすヒメちゃんはやっぱり可愛いんだけど、ごめん、わたしが今一番心配しているのは、
ヒメちゃんでもエリーでもなくて――。
「ぼくも一緒に助けに行って来るから、そしたらぼくにもエリーを紹介してくれる?」
「翼くんっ…!」
ぱあっと顔を輝かせるヒメちゃんを優しい目で見つめる先輩は正しく王子様のよう。
てか、先輩って子供相手には毒舌出ないんですね。
新たな一面を知れて嬉しいってわけではないけど、なんだろう。複雑だ。
ピンポーン
突如鳴り響いたチャイムにドアホンを振り返れば、マスクで顔はわからないもののどこかで見たことのあるような男性の姿が。
「すみません、ちょっと失礼します」
一応声を掛けてから立ち上がってボタンを押す。
「はい、どなたですか?」
「突然すみません。サエキと申します。此方に、「サエキっ!?」…お嬢様がお邪魔しているようですね。
お渡ししたい物があるので、開けて頂いてもよろしいでしょうか?」
「あ、はい。すぐ行きます」
ボタンを押して会話を終了すれば、いつの間にかわたしの隣に来ていたヒメちゃんが控え目にわたしの手を引っ張る。
一緒に行きたいんだろう。問題ないので頷いて彼女の小さな手を掴んで玄関へ向かい、ドアを開けた。
「サエキ…!あなた、今日は来られないんじゃなかったの?」
「申し訳ございませんお嬢様。風邪を移してしまっては…と、本日はお休みを頂きました」
「構わないわ。それで、どうしたの?」
「はい。…先程エリーをお迎えにあがったので、お嬢様にと思いまして」
「、エリーっ!」
背中に隠していたウサギのぬいぐるみをさっと差し出したスーツの似合う男性に
ヒメちゃんはわたしの手を離して駆け出して行く。
そんな感動の再会を前に、あーあ。気付かれないように零した息は、けれど彼に気付かれて。
「なに今の。安心したって風には見えなかったけど」
話が気になって出て来たのだろう、先輩はちょっと眉を寄せてわたしを見下ろす。
「えっと、実は……」
近所でちょっとした有名人のヒメちゃんには色々な噂がある。
彼女に何かするとこの街にいられなくなる。とか、会社が一つ潰れる。とか、まあ様々なんだけど、
本当に怖いのはそれがただの噂じゃないってことで。
「…多分、意地悪した男の子たちの家は今頃……」
「ご愁傷さま、とでも言っておこうか」
何とも言えない顔で笑った先輩に頷いて、嬉しそうにウサギのぬいぐるみを抱きしめるヒメちゃんを見る。
ほんとに可愛いし、礼儀正しい“いい子”だ。――でも、
「お姉さん、翼くん、ほんとうにありがとう!エリーも二人にありがとうって言ってるわ!」
「わたしは何にもしてないけど…でも、帰って来て良かったね」
「ぼくもエリーに会えて嬉しいよ」
「ふふっ!…あのね、翼くん」
「ん、なに?」
ぎゅうっとウサギのぬいぐるみを抱きしめたヒメちゃんに先輩がしゃがんで首を傾げれば、
彼女はまるで内緒話をするように先輩の耳元に唇を寄せて、
「大きくなったらヒメの王子様にしてあげる」
ぱちり、瞳を瞬かせた先輩に彼女は悪戯が成功した子供みたいに笑った。…や、子供なんだけどね。
サエキさんと一緒に帰って行ったヒメちゃんを見送れば椎名先輩が家にいる必要もないわけで、
リビングから鞄を取って来て靴を履く。
「椎名先輩」
「ん?」
「…ヒメちゃん、とってもいい子なんですけど、欲しいと思ったものはどんな手を使っても手に入れるタイプなんで、
えーと……頑張ってください、ね?」
や、ほんといい子なんだけどね?
曖昧に笑うわたしに先輩はどこか楽しそうな笑みを返すと、それじゃあ、と帰って行った。
――ところで、何でサエキさんはエリーとヒメちゃんの居場所がわかったんだろう?
嫌な想像しかできないからこれ以上考えないに限る。うん。
***
私があの子みたいだったら、何か違ってたかな?