「悪いねさん、巻き込んじゃって」
「大丈夫、だけど、」
「だけど?」


この体勢はどうにかならないんだろうか。
吐息さえ聞こえる距離に泣きそうになりながら、あたしは今にも飛び出しそうな心臓を必死に押さえ付けて思うのだ。

―なんでこんなことになったんだっけ?



7/10



申し分程度に降る雨は朝から止むことはなく、授業を終えて放課後になった今もはらはらと空は涙を落とす。
いつもなら賑やかなグラウンドは静まり返り、その代わり校舎の壁にぶつかった声という声が反響して教室まで運ばれてくる。

音もなく動く秒針はぐるりぐるりと同じ動きを繰り返し、カチリ、長針が右に一つずれた。


「あれ、さんまだ帰んないの?」
「、…友達、待ってて」


ぼんやりとしていたからだろう、突如はっきりと響いた声に驚いて息が逃げた。
一度呼吸を整えてから振り返れば開いたままになっていた後ろのドアに手を掛けるようにして翼くんが立っていて、 あたしの返答に少しだけ口角を上げて「友達?」とわざとらしく眉を寄せる。

季節は違えど放課後の教室に二人きり

頭を過る過去の映像はチクリとあたしの胸を刺すけれど、今のあたしがあるのはこの痛みのお陰なのだ。
それにあのときとは違って、視線の先の彼をこわいとは思わないのだからこの空間は苦痛ではなくて、
…ただ、あのときとは別の意味で緊張はしてしまうけれど。


「バスケ部だっけ?」
「ううん、テニス部」


今度はすぐに返事をすれば、翼くんは楽しそうに笑った。
もしかしたら彼もあたしと同じようにあの日のことを思い出しているんだろうか?
だとしたら少し、…ううん、すごく嬉しい。
じわりと疼いた感情を椅子から立ち上がることで紛わせ、足を止めたままの彼へ近寄る。
相変わらず楽しそうに大きな瞳を揺らす彼はやっぱり可愛いと思う。間違っても口にはしないけど。


「そういえばさっき女テニが多目的室に移動用ネット運んでたっけ」
「うん。長くても一時間くらいだって言ってた」
「ふうん…それで?一時間も一人で待つつもり?」
「朝読書用の本あるから。翼くんは、…部活中?」
「筋トレ中」


Tシャツにハーフパンツ姿だからサッカー部も校内でなにかやっているんだろうとは思ったけれど、 筋トレ中の彼がどうしてこんなところにいるんだろう?首を傾げれば彼はにいっと口角を上げた。


「今日のメニュー鬼ごっこなんだよね」
「鬼ごっこ…?」
「そう。ま、鬼から隠れるのもありだからある意味かくれんぼでもあるけど」
「範囲は?」
「校舎内」
「……鬼の人大変じゃない?」
「特別ルールで鬼に見つかったやつも鬼になんの。だから最後まで残ってた方がキツイかな」
「ちなみに今翼くんは?」
「ぼくが簡単に捕まると思う?」
「…思いません」
「せいか、」


満足そうに紡がれた言葉は中途半端に止み、あたしが疑問を投げる前に伸びてきた手が一瞬であたしの手首を掴んでそのままどこかに押し込められる。

暗くなった視界ともわっとした空気、突然の展開に頭が追い付かずあたしはただただ瞬きを繰り返すばかり。


「……つばさく、」
「ごめんちょっと黙って」


やっとのことで声を出すもぴしゃりと跳ねのけられてしまえばどうしようもない。
仕方がないので翼くんが質問を受け付けてくれるようになるまで一人で状況整理をしようと決め、
数秒前の会話を思い出して、自分が立っていた場所を浮かべて、

〜〜〜ッ!

結果、声にならない悲鳴を上げた。


多分、いや、絶対、今あたし掃除ロッカーの中にいるんだ。
普段なら掃除用具が入っているけれど、明日の朝届く新品の物と取り換える為に掃除の後に全て回収した今ならばロッカーの中に人が入ることは可能であるし、 全教室の物を一新すると担任が言っていたのでクラスの違う翼くんがロッカーの中が空になっていることを知っていても可笑しくはない。
話の途中で言葉を区切ったのだって、きっと鬼の人が近くに来たことに気付いたからなのだろう。
―だけど、でも、なんであたしまで…!?
状況を理解したことで更に混乱したあたしがぐるぐると目を回していれば、 追い討ちを掛けるようにぐいっと頭を引き寄せられて温かいものに柔らかく鼻を塞がれる。


「そんなに汗掻いてないし掃除用具の匂いよりはマシだから我慢してよね」


そんなこと言われても頷くこともままならないよ。
……恥ずかしくて泣きそうだ。誤魔化すように目を閉じても大して視界は変わらないけれど、そうでもしないとやっていられない。


「あっ柾輝!翼おった?」
「いや、いねえ」
「あと翼だけやのに。…ちっこいから妙な場所に隠れとるんとちゃう?」
「本人に聞かれてたら殺されるぜ?」
「おまっ!怖いこと言うなや…!」
「そりゃ悪かったな。ビビってる暇あんだったらさっさと探し行くぞ」
「ほわっ!あと三分…!負けたら飯奢らされるー!」


大きな足音とともに賑やかな声が遠ざかれば自分の心臓の音ばかりが目立って余計身体が固まってしまう。
ロッカーの中は人二人が納まるには少し狭くて、掴まれたままの手首も押さえられた頭も、 翼くんの肩に埋めるようにしている顔も、全部が全部とけてしまいそう。


さん」


耳をくすぐる心地良い声に、また一つ心臓が悲鳴を上げた。


「言ってなかったけどさ、負けた方が全員に飯奢ることになってるんだよね」
「…、負けた方、って?」
「全員捕まえられなかったら最初に鬼だったやつが負け。全員捕まった場合は一番最後に捕まったやつの負け」
「…それって、」
「鬼の負けはわかるけど最後の一人に責任が行くなんて酷い話だと思わない?」
「……」
「ちなみに俺、最後の一人」

「悪いけどあと三分付き合ってよ」


囁くようにそんなことを言われたら、あたしはもう黙ることしかできないよ。



あたしの心を殺す人



「ところで、吊り橋効果って知ってる?」