「翼ちゃんに意地悪する子は、わたしが全部やっつけてあげるからね」


初めて会ったお母さんのお友達の子どもは、
わたしと同い年だけどわたしより小さくて、かわいくて、泣き虫な男の子だった。


「だからなんにもこわくないよ」


わたしが守ってあげなくちゃ。この手を引くのはいつだってわたしの役目だと、ずっとずっと、思ってた。



***



小学生になる前、母に連れられて何度も通ったお家に彼はいた。
最初はお母さんの背中から出てきてくれなかったけれど、たくさん話しかけている内にちょこっと顔を見せてくれて、そうして気がついたら手を繋いで笑ってたの。
わたしにとって天使みたいな子とは正しく翼ちゃんのことで、 大きなアメ玉みたいな瞳からぽろぽろと落ちる涙がお日様に反射してキラキラと光るのを見るたびに、きっと舐めたらこんぺいとうのように甘い味がするんだろうなあ、と。おとぎ話染みたことを思ったものだ。

女の子よりもお人形よりもかわいい翼ちゃんが、わたしの服や手をきゅっと掴んで、「ちゃん」。 お砂糖よりも甘い声で名前を呼ぶのがすきだった。だいすきだったのに、


「いつまでも不細工な顔で人のことじろじろ見てんじゃねえよ」


詐欺だ。きっとわたしは現在進行形で詐欺の被害に遭っている。
だって、かわいいかわいい翼ちゃんはわたしにこんな暴言を吐かない。


「ど、…どちらさまですか?」


確かにわたしが翼ちゃんと最後に会ってから10年近く経ってはいるけども、あの翼ちゃんがまさかこんな口の悪い人に成長してるわけがない!
絶対詐欺だ!別人だ!ドッペルゲンガーだっ!!

だけど、目の前の翼ちゃんの偽物はかわいい顔を歪めてのたまった。


「名指しで訪ねといてなに言ってるわけ?」


ジーザス。ちょこっと首を傾げた仕草がめちゃくちゃかわいくて慄いた。
このかわいさが世界にいくつもあるわけがないので、彼は正しくわたしの知る椎名翼なのだろう。うそーん。



***



隣のクラスにやって来た噂の転校生を突撃訪問して撃沈するという珍事件から時はちょっぴり流れ、記憶の中の翼ちゃんと隣のクラスの椎名くんの違いにも少しずつではあるが慣れてきた今日この頃。 わたしと彼は思い出話に花を咲かせるどころか殆ど言葉を交わしていない。
同じ学校に通うようになってもクラスも部活も委員会も違うんだから、まあそんなもんだ。

何より、耳に入ってくる椎名くんの噂話はどれもこれもわたしの知る翼ちゃんと結びつけるにはイメージが遠すぎて、 もしかしたらあの泣き虫なお友達はわたしの妄想なんじゃないか、なんて思ったりもして。――だけど、


「あ、」


マンガだったら絶対に音が鳴っていた。
放課後。5時間目の体育の時に更衣室に忘れてしまったゴーグルを取りに来たわたしの耳に、 ざぶん、と音が聞こえたものだからどうにもこうにも気になってフェンスの中を覗き込むと、 今まさに水面から顔を出した彼とばっちり目が合ったのだ。


「なに。覗き?」


突然の遭遇にぽかんと開いた口から声が出ないでいると、網目の向こうから不機嫌そうな声。
そんな不名誉な濡れ衣はご免なので慌てて首を横に振る。


「違うよ!…椎名くんこそ、なにしてるの?」
「楽しく泳いでるように見える?」
「いや、あんまり?」
「判断力は悪くないみたいで良かったね」
「ありがとう?じゃなくて。何で着衣水泳なの?」
「ぼくのクラス今日体育なかったから」


水着もないのにプールに入るなんてチャレンジャーだなあ。
体育の授業内容が水泳になったのはつい最近で、お日様が真上にある昼間でもちょっと寒いのによくぞ飛び込んだものだ。 椎名くんの考えることは謎だらけだなあと何気なく視線を移した時、プールサイドに散らばっていた光景にひゅっと喉が鳴った。


「ねえ椎名くん、それ、」


言葉の途中で、ざぶん、音が響いて椎名くんは見えなくなる。

わざとなのか偶々なのか、質問を受けつけてくれなかった椎名くんにざわざわと胸の辺りが落ち着かない。 だってわたし、視力は悪くないんだ。ううん。もっと言うとすごく良い方だ。


「……」


フェンスにかじりついて穴を覗くけれど、椎名くんはまだ上がってこない。
どうしよう。プールサイドと水面をいち、に、さん、と往復している内に手の中でぎちぎちと音が鳴る。 ええい、女は度胸!堪らず脱ぎ捨てたスニーカーに靴下を押し込んで、中途半端に開いたドアを潜った。


「う、わあ…、」


見間違いならどんなに良かったか。

プールサイドに並べられているのは教科書とか、ノートとか、どれもこれも学生の必需品で、 ふやふやになったわたしの大嫌いな数学の教科書を開けば、裏表紙の内側に椎名翼と名前まで書いてある。 …これはほぼ確定じゃないか。最悪の予想が脳裏をちらついた時、ざぶん、音が響く。


「さむ、」
「っタオルタオル…!あった。これわたしのじゃないけど使いなよ!」
「ぼくが持ってきたタオルだから言われなくても使うよ」


ざばざばと重そうな音を引き連れてプールサイドにやって来た椎名くんに慌ててタオルを掴んだのと逆の手を伸ばしたけど、 彼はわたしの手を掴むことなく両手をぐっとついて自力で水の中から上がってきた。

空っぽの手に気を取られたのは一瞬で、すぐに引っ張られたタオルとともに意識を戻す。


「…大丈夫?」
「何に対して言ってるのか知らないけどそんなに軟じゃないからこの程度で風邪は引かない」
「うん。でもこれどうするの?」
「乾かしてみないとどうにも。ま、内容は頭に入ってるし大丈夫なんじゃない?」
「うん。…これから、どうするの?」
「どうって?」
「すごく嫌な想像だけど、でもこれ椎名くんのうっかりじゃないんだよね?」
「うっかりで教室からプールまで荷物が飛ぶと思う?」
「…だよね。じゃあ、どうするの?」


転校生の椎名くんは色んな意味で注目の的で、噂の内容も様々だ。
彼に好意を寄せている人もいれば、その逆もいる。つまり、そういうこと。

タオルを首にかけて貼り付いたシャツをうっとうしそうに指先で摘んだ椎名くんは、嫌そうに歪めた唇を開く。


「どうもこうもないよ。あんたが下手に騒いだりしなければそれで終わり」
「でも、このままじゃ…!」
「犯人の見当がついてる上で言ってるんだけど」
「えっ誰!?」
「聞いてどうすんのさ。大事にするつもりはないし、ぼくが相手にしないってのがわかれば向こうも飽きるだろ」
「…でも、」
「人が決めたことに口挟まないでくれる?何かして欲しいとか思ってないから」


温度のない声だ。怒ってるとか、悲しんでるとか、今の声にはどちらもない。
やだな。さっきから椎名くんは一度もわたしと目を合わせようとしない。 やだな。胸の辺りがきゅうっとしぼんで、もうなんにも出てこないよ。 …出てこない代わりに、きゅ、びしょびしょになったシャツを掴む。


「…、…あーあ。ほんっとくだらない!麻城のやつらも大概だと思ってたけど、飛葉はそれ以上のばか。ばかの巣窟!」


掴んだ裾がするりと手から抜けてしまったのは、椎名くんがその場にごろんと寝転んだから。


「…酷いことする子ばっかじゃないよ」
「でもばかじゃん。あんたもそう」
「え、わたし?」
「うん」
「……わたし椎名くんになにか、は、転校初日に盛大にやらかしたけども、えーと、うん、ごめんなさい?」
「やだ」
「やだって、かわいいな」


きらきら、きらきら、 閉じた目蓋の上、長い睫毛がお日様に反射してキラキラと光って、こんぺいとうみたいだなあ。場違いにもそう思った。


「それやめてくれる?」
「うん?」
「かわいいとか、椎名くんとか、ばかなの?」
「ごめん口に出したつもりなかったんだけど、…うん?かわいいはともかく椎名くんは椎名くんだよね?」


だって彼の名前は椎名翼だ。首を傾げれば、きゅ。ぺたっと地面についていた手の一番端っこ、小指の先を何かが掴む。


「昔はそんな呼び方じゃなかった」


わたしのこと、ちゃんと憶えててくれたんだね。
震えそうな声を誤魔化したくて、自由な方の手でキラキラ光る赤茶色の猫っ毛を梳かすように撫でた。


「……だ、って、あの時翼ちゃんって言ったらすごい嫌そうな顔した」
「中2にもなって人前でそんな呼び方されたら嫌な顔の一つや二つするよ」
「えー」
「こっちの台詞。久々に会えたのに何の嫌がらせかと思った」
「わたしが翼ちゃんに嫌がらせなんてするわけないのにー」
「知ってる。ぼくに意地悪するやつはが全部やっつけてくれるんだろ?」


鼓膜を揺らすお砂糖よりも甘い声に、ぽとん、転がったこんぺいとう。


「泣き虫」
「翼ちゃんには言われたくないもん」
「大昔の話だろ」
「大昔しか知らないんだよ」


わたしの知っている翼ちゃんは、お人形よりもかわいくて、ちょっぴり人見知りで、寂しがり屋で、泣き虫で。 たくさんたくさん泣くものだから、このままじゃ落っこちそうな大きな目が溶けちゃうかもしれないって思ったの。
だから翼ちゃんが泣かないように、わたしが守ってあげるんだって思ったし、ずっとずっと、わたしがその手を引っ張ってあげるんだって思ってた。

思ってたから、転校生の椎名くんにはもうわたしなんかの手は必要ないんだって思って、さみしかったんだよ。


「じゃあ今から知ってよ。泣き虫な翼ちゃんからは卒業して、今の椎名翼を知って」
「…いいの?」
「その代わり俺には今のを教えてくれるんだろ?」


伸ばされた手が頬に触れる。わたしを見上げる翼ちゃんがゆっくりと微笑んで、
だけど、とってもかわいいその顔は、わたしの記憶の中からは見つからないものだった。



お砂糖のアメを泳ぐ
6月27日、やっと君に触れられた日。






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小さい頃に知り合った可愛い天使が再会したら生意気な小悪魔になっていたお話。

2013年度テーマ「君を包む」、6月27日(水)「ヘレンケラーバースデー」、仮お題「「水」という言葉を覚えた日」
Special Thanks*みなさん
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「stray cat」のみなさん主催企画サイト「0419」の2013年度に提出させていただいたお話です。