一度認めてしまえばもう簡単だった。
絡みあった感情が瞳から溢れ出し、残った一つはこれ幸いと納まりの良い場所にすとん、と腰を据える。
あたしを蝕む戸惑いもずるさも、全部が全部たった一つの感情が原因だったのだ。

しいなくんがすき

唇で象って、指先で触れて、逃げ出さないように鍵を掛ける。
じゃないといつか いってしまう だろう。ふわふわ、ふわふわ、酷く不安定な感情だから。
だからこうして、時々確かめるくらいが丁度良いの。



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さん?」
「、え?……椎名くん?」


突然響いた声に肩が揺れるのは条件反射で、相手が彼だからというわけではない。
昼食を手早く済ませ向かった理科室でまさか椎名くんに会うとは思わなかった。
…というか、廊下から覗いたときは中には誰もいなかったのに、一体どこから現れたんだろう?

誰もが抱くだろう当たり前の疑問に首を傾げていると、数歩先に立つ椎名くんはにこりと音が聞こえそうなほど上手に笑った。


「久しぶり、っていうのも同じ学校通ってて変な話だけど、まあ久しぶり?」
「うん。久しぶり、かなあ?」
「なにしてるの?」
「次の時間の準備。あたし日直だから頼まれて」
さんのクラスって日直一人ずつだっけ?」
「ううん。ちゃんといるんだけど、委員会と被っちゃったから」
「ふうん」


軽い口調の椎名くんにあたしは曖昧に笑って、黒板前の広い机に置かれていたケースを手に理科室と繋がっている準備室に向かうべく彼の横を通り抜ける。
じゃらり、職員室で預かった鍵が独特な音を立てた。


「開いてるよ」
「え?」
「鍵使わなくても開いてるって言ってるの」
「……もしかして椎名くん、準備室にいたの?」
「うん」


準備室のドアは二つ。他の教室と同じく廊下側から入る為のドアと、理科室から直接行く為のドアだ。
ただ、廊下側のドアは物で塞がれていて利用できない状態なので、実質一つといって良い。

準備室の鍵って二つあったかな…?あ、でも予備があってもおかしくないか。

脳裏に浮かんだ疑問はすぐにあたしの中だけで解決され、代わりとばかりに別の疑問がふと口をついた。


「準備室でなにしてたの?」
「かくれんぼ」
「……」
「先に言っておくけど聞き間違いじゃないし世間一般で知られる遊びであってるから」
「……なんか、懐かしいね」
「そう?結構やるけど。シンプルに鬼ごっことかも」
「……」
「意外?」
「…うん、まあ」
「暇つぶしにはもってこいだよ。さんも一緒にやる?」
「え?」


こてりと可愛らしく首を傾げた椎名くん対し、あたしは随分と間抜けな顔をしているだろう。
予想外の言葉に呼吸すら止まったあたしを見て、椎名くんはやっぱり楽しそうに笑った。


「なんてね。仕事あるんだろ?真面目にぼくの相手なんかしてないでさっさと片付けたら」


一つ、息を吐く。椎名くんは不思議だ。一見皮肉染みた言い回しなのに、それが気遣いからきている言葉だとわかってしまう。
あたしは頷いて準備室のドアを開け中に入る。―するとどうしたことか、椎名くんもあたしの後に続くようにドアを潜った。


「なに?」
「え?ううん、」
「そ。ぼくのことは気にせずさんはやることやりな」


ぱたん。ドアが閉まる音。 指先がぴくりと跳ねたけれど、よくよく考えれば椎名くんはかくれんぼ中で、最初からここに隠れていたのだ。
あたしが来たから一度外に出て来ただけで、また同じ場所に隠れただけのこと。それだけ。

ざわりと揺れた胸の内を鎮めるようにそっと目を伏せ、持ち上げれば 次の時間に使用する実験道具を棚から一つずつ抜き取って班ごとのケースに入れる作業に移る。 ……移る、んだけど。なんだろう。 棚に向き合うあたしに遠慮を知らない視線が突き刺さってどうにも集中できないのだ。


「……、あの、椎名くん」
「なに?」
「えーと…、そんなに見られたら、穴が開きそうだよ」
「まさか。ほんとに開くわけないから大丈夫」
「いや、うん、でも、…椎名くんの眼力ならほんとうに開くかもしれないよ?」
「……さんって結構面白いこと言うよね」
「それほどでも」


視界の端で椎名くんが端整な顔をくしゃりと歪めた。
歪めた、といってもできあがるのは綺麗な笑顔で、一頻り声を響かせた彼は一度ぴたりと音を止ませ、再び響いたボーイソプラノは歌うように引き金を引く。


「それから、結構薄情だよね」
「…え、?」
「一ヶ月前」
「ッ、」
「正確には、一ヶ月と十日前」


理解すると同時にあたしの身体はいっそ面白いくらい強ばり、手の中の試験官がかちゃっと危ない音を鳴らすと
すっと横から伸びた手があたしの手から危なげない手つきで試験管を抜き取って丁寧にケースに入れた。

椎名くんによって瞬時に縮められた距離は、あたしに逃げ場を与えない。
だから、俯いたところで悪あがきでしかないのだ。


「その様子だと知ってたんだ?…ふうん。知っててなにもなし、か」


じわじわと獲物を追い詰める過程を愉しむような残虐性のある声音の中にただ一つ、 別のものが混ざっているように聞こえたのは、きっとあたしの耳が都合良く拾っただけだろうけれど、それでも。


「―違うよ」
「なにが?」
「…なにもなかったんじゃなくて、できなかったの」


言いたかったんだよ。でも言えなくて、一ヶ月経った後もぐるぐると考えてしまうくらい気にしていた。
今だって会話の途中でなんでもないふりをして告げられないかって、そう、思っていたのに……なんで上手くいかないのかなあ。


「別に気を遣ってくれなくて良いよ。さんにとって所詮ぼくはその程度だったってことで」
「ちがっ!、……ほんとに違くて。今更言い訳にしかならないけど、ほんとに…!」


弾けるように顔を上げれば、刹那、視界いっぱいに広がったのはにっこりと音が鳴りそうなほど綺麗な笑顔


「ごめん、嘘。ちょっとからかってみただけ」
「…、え?」
「でも、へーえ?どうやらぼくが思ってたよりさんの中でのぼくって大きいんだ?」
「……え、と、」
「なにかぼくに言うことは?」


こてり、首を傾げた椎名くんはほんとうにかわいい。
かわいい、けど、あたしの身体を熱が走り抜けたのは、それだけの理由ではなくて、


「……誕生日、おめでとう」
「ありがと。で、プレゼントは?」
「え?」
「こんなに遅れたんだから当然奮発してくれてるんだよね?」


ずいっと一歩踏み出した椎名くんに堪らず一歩後ずさるけど、生憎後ろには実験道具が並ぶ棚があるのですぐに行き場は失われ、 対してまた一歩踏み出した椎名くんは、びくりと肩を揺らしたあたしに口角を上げて唯一の逃げ道を授けるとばかりに耳元でそっと囁くのだ。


「―、え?」
「なに、聞こえなかった?」


もう一度唇を寄せようとした彼に慌てて首を振り、視線を泳がせること数秒。
きゅっと唇を噛んで、息を吐いて、吸って、


「誕生日おめでとう、翼くん」


恐る恐る、でもありったけの気持ちをこめて。


「…」
「……翼くん?」
「及第点、かな」



それは耳元から運ぶ、



少しだけ嬉しそうに聞こえたのは、やっぱりあたしの都合の良すぎる耳の所為だろうか。