大切にしているものがある。 誰にも見つからないようそっと折り畳んで封をした、あたしの欠片。
名前のない感情は時折揺れて、いつかその名を呼ばれるのを待つように、今日もまたかさりと音を立てるのだ。



5/23



たった一言で良かった。たった一言、告げることができたのならあたしはきっと満足しただろう。
得られるものは自己満足以外のなにものでもないけれど、あたしはそれがほしかったんだ。


「今更すぎるよね…」


寝付きが悪くなったのは一ヶ月ほど前からだ。
ベッドに寝転んで毛布に包まってみても睡魔が手招くことはなく、そんな日はいつも窓の外を眺めて、

さん

あたしの名を呼ぶ音のない声に震える身体を抱きしめる。
…あたし、どうしちゃったのかなあ。焼きついて離れないの。

とっぷりと浮かぶ三日月は淡く微笑み、ただ静かに辺りを照らす。
だけどあたしは、時に太陽よりも強くじりじりとあたしを焦がす三日月を知っていた。


二年生の終わり頃、サッカー部の練習試合を観に行ったことがある。
そこで目にした光景は脳に届くまでに鈍器へと変わり、そのままあたしを容赦なく叩き付けた。

だって知らなかったんだ。彼があんな顔をするなんて。

抱いた想いは複雑で、でも単純で、きっとそれはサミシイとか、ウラヤマシイとか、そんな名前。
ただ一つ確かなのは、今まであたしが見てきた彼は彼の中の極一部でしかなかったということ。

三年生になって彼とはクラスが離れたので、顔を合わせれば言葉を交わすこともあるが 互いの教室が端と端に位置している為使う階段も違うし顔を合わせない日の方が格段に多く、言葉を交わす回数はぐっと減った。
それでもあたしの耳にはその日の彼の何気ない行動などが一種の武勇伝となって届くので、 繰り返し繰り返し鼓膜に焼きつく彼の存在が薄れる気配は一向になくて、

けれど、彼の中であたしと云う有り触れた存在は一日視界に入らないだけで消しゴムを掛けられたようにぼやけ、そうして呆気なく消えてしまうのだろう。 ―それを寂しいと思うのも、自分勝手な話だ。

だってほんとうは知っている。

たとえば、使う階段を教室とは真逆のものにすれば会える可能性は高くなるし、
昼休みは屋上、放課後はグラウンドに行けば彼がいるだろう。
事実 彼に好意を抱く女の子たちは少しでも彼の視界に入ろうとそうしているのをあたしは知っている。
知っているけど、動かない。動けない。

だって、困るんだ。


「……わからないのに、」


誰にも内緒で仕舞い込んでいるこの感情は行き先もわからずあたしの中でただ息を潜めている。

それは誰かに見つかった途端 風に飛ばされてしまいそうなほど軽くて、
それは誰かに触れられた途端 音もなく破れてしまいそうなほど脆くて、

だから誰にも見つからないように、気づかれないように、大事に大事にそっと隠した。
隠しただけの、つもりだった。

彼のことを知りたいと思った。でもやっぱり、知りたくないと思った。

だって、一歩距離を縮めても、その距離の何十倍も遠くに彼がいると気づいてしまったらもう一歩も動けない。
…怖いんだよ。知れば知るほど、知らないことの多さに押し潰されてしまいそう。
押し潰されてぺちゃんこになって、あたしはきっと埋もれてしまう。
彼を慕う大勢の女の子の中の一人になってしまう。

―ああ、なんだ。そうか、

二度三度、睫毛を叩く。当たり前だけれど、空に浮かぶ三日月は消えない。
あたしは逃げるように毛布の中で身体を転がして天井を見上げ、けれどもすぐに視界を黒く染める。


「、ずるい」


吐き捨てた音は呪いのように身体を駆け廻りあたしを侵す。

結局あたしはずるいんだ。 努力なんてなに一つしないくせに、彼にとっての なにか になりたいと思っている。
他の人とは違うんだって、きっとどこかで、彼女たちの努力を馬鹿にしていた。
……ひどいよね、きたないよね。
どうしてあたしはこんなにも我儘なんだろう。どうして、逃げてしまうんだろう。

視界を覆うように交差させた腕に爪を立てても鈍い痛みが走るだけでなに一つ変わらない。
窓の外では三日月が微笑んでいるだろうし、あたしの中にある名前のない感情も消えてはくれないだろう。

それなら、どうしようか。どうしたいの?

一ヶ月ほど前からずっと考えていた。考えて考えて、答えが出ないまま意識が途切れて朝になる。
繰り返すうちに目の下は薄らと黒く染まり、頭はいつだって鈍いまま。
そうしてまた夜を迎えても鈍い頭では上手いこと考えを纏められないのだから堂々巡りの悪循環。

とぐろを巻いた感情が邪魔をしてその下に隠した心を覗かせてはくれないのだ。


「いたい、くるしい、かなしい、もうやだ」


断ちきってしまいたい。なにを?全部。
いっそ名前も見つからない感情なんて最初からなかったことにしてしまえばいい。
そしたらきっとすっきりするよ。……ほんとうに?


「だってこんなに、たいせつなのに、」


目の奥がじくりと疼く。ぎゅっと口の中を噛み締めても納まる気配はなくて、やがてじわりと溢れ出す。
鼻の奥がつんとして、頭がぼうっとする。
そうしてあたしの中にあった複雑なものがゆるゆると溶けだして、一番最後に残るのは――


「しいなくん」



消しゴムで名を綴る



すきだよ、すごく