5/14(Mon)
「悪い、匿ってくれ!」 猫のようにしなやかな身のこなしで廊下側の窓から飛び込んで来た女は、そのままさっと身を屈めぴたりと壁に背中を押し当てる。 一体何事かと、クラス中の視線を浴びていることに気付けばにんまりと弧を描く唇にすらりと伸びた人差し指を押し当てた。 「そこの一年っ!今こっちにクロネコが来なかったか!?」 どたどたと騒がしい足音を鳴らして息を乱した強面の男の登場にクラス中の視線は少し上に動く。 丁度女が息を潜める真上だ。 最初に答えたのは誰だったか。男の問いに否と首を振れば、 三年のカラーである青色のネクタイをかっちりと締めた男は忌々しそうに悪態をつきはしたものの、 「騒がせて悪かったな」。と詫びを入れてから来た時同様足早に廊下を歩いて行った。 「黙っていてくれてありがとう。命拾いしたよ」 凛とした声が教室を包んでいた沈黙を切り裂く。 ぱたぱたとスカートを叩いて立ち上がった女に視線は再び集中し、 けれど慣れているのか居心地の悪そうな素振りは小指の爪程も見せず、女は悠々と言葉を続ける。 「君たちの中にも知っている人はいると思うが、あの怖いお兄さんは風紀委員長でね。 校内を駆け回る私を見つけると追い掛けずにはいられない性質なんだ」 「その風紀委員長の言う『クロネコ』があんただって確証がなかったから黙ってただけで庇ったつもりはないよ」 「それでは私は聡明な君が咄嗟の連想ゲームでクロネコと郵便屋を結び付けなかったことに心より感謝を申し上げるよ。 正式にはクロネコヤマトが正しいんだけれどあまりにも長いだろう?先輩方の中には後ろを取ってヤマトと呼ばれたり ライバル会社の佐川の名で呼ばれていた方も居たそうだけれど、これだと紛らわしいからね。まあ偶然にも本名と同じ、」 「興味ないから」 「それは残念」 「…そもそも廊下を走るあんたが悪いんだろ」 「御尤も!けれど速達希望の時は仕方がないさ」 「じゃあこんな所で油売ってないでさっさと届け先に行けよ」 「お気遣いありがとう。でも今は急ぎじゃないんだ。普通に歩いていたところばったり彼と鉢合わせて 条件反射で逃げ出したまでさ。…仕方がないだろう?だって彼、私を見る度に反省文を書かせようとするんだもの」 如何にも「困っています」と眉根を寄せて肩を竦める姿さえ芝居染みているものだから、 隠しもせずに胡乱な目を向けてやった。こうして顔を合わせるのは一ヶ月振りだろうか。相変わらず変な女。 「さて、折角会えたんだ。先に君への用を済ませてしまおう。はいこれ。前回よりは少ないんじゃないかな?」 いっそ嫌味なくらい丁寧に差し出された紙の束に眉を寄せる。 「受け取るだけさ。そう手間ではないだろう?」 「前回が最初で最後だと思ってたんだけど」 「謙遜かい?量は減ったがその分質は上がったんじゃないかと私は推測するよ。 だってお嬢さん方にはこの一ヶ月間椎名翼という人をじっくり見つめる時間があったんだもの」 嫌味な程型に嵌った笑みを作る女から手紙を受け取るまでにそう時間は掛からず、 たった数グラムの紙がずっしりと重く圧し掛かる錯覚に目を伏せる。 けれど、ぽんと頭上に載った何かがそのまま何度も同じ動きを繰り返すので溜息と共に視線を上げた。 「ちょっと、何してんの」 「いやあ、素晴らしく柔らかな髪だね。これは癖になる。…おや、揃いも揃って鳩が豆鉄砲喰らったような 顔をしてどうしたんだい?気になるのなら遠慮せずに君たちももふれば良いよ」 「おい馬鹿何勝手なこと言ってんだ。お前らも調子乗んな馬鹿やめろ暑苦しい!」 女の呼び掛けに今まで傍観に徹していたクラスメートが一人、また一人と手を伸ばし 人の髪をくしゃくしゃと好き放題撫で回す。ふざけんな何のつもりだ。 イライラと声を荒げても一向に止まらず、もう良い好きにしろと諦観の境地で肩の力を抜いたところでぱちり、交わる視線。 この迷惑極まりない現状を招いた張本人はいつの間にか喧騒の輪から離脱していて、 両腕を組みながらゆったりと背中を壁に預け此方を見る慈愛に満ちた表情は宛ら赤ん坊を見守る母親のよう。 意図がわからず眉根を寄せる。すると、視線の先で唇が数回形を変えた。 「…」 何が、「良かったね」、だ。 益々眉間に皺が寄るのを感じたが、同時に口の端がむずむずとしていることもはっきり気付いてしまったのだから堪らない。 「椎名、椎名」と飽きもせず人の名前を呼ぶクラスメートたちからは一ヶ月前までの腫れ物に触るような空気は疎か、 数分前までの遠慮すら見られないのだ。 はあ、大きく息を吐く。ぼくも案外子供だな。 もう一歩のところでまだ馴染めずにいた教室の薄い膜が割れたことを純粋に嬉しい、なんて。 「さて、可愛い一年生の仲睦まじい姿も堪能したことだし、私はそろそろお暇するよ」 「え、先輩!折角だから少し教えてもらいたいことがあるんですけど」 「私に出来ることなら喜んで。そう言えば昼休みに教室に集まって一体何をしていたんだい?」 「次の授業数学なんですけど、前回出された課題プリントがすごく難しくて…」 「成程。力になってあげたいんだけれど困ったな、生憎私は数学はあまり得意ではなくてね…おやおやそんな 絶望的な顔をしないでおくれ。大丈夫、君たちには素晴らしいクラスメートがいるじゃないか」 にっこりと笑ってこっちに近付いて来た女は、乱れた髪を整えている俺の手をぱしりと掴んだ。 「…何?」 「彼の優秀さは三年の階にまで響いているし、先程のことから推測するに、彼は意外と押しに弱い。 どうだい?これ以上な適材はないだろう?」 パチンと片目を瞑った女の言葉に見る見る内に表情を明るくしたクラスメートが一人、また一人と俺に教えを乞うので勢いに負けて頷いた。 …自分から言い出さなかっただけで、聞かれれば教えるつもりだったんだけど。 プリントを取りに俺の周りから人が引くと掴まれていた手が解放され、代わりにぽんと肩に触れられる。 …うわ、スッゲェ既視感。 「ほら、今日も君の隣は温暖区域だ」 耳元に寄せられた唇は直ぐに離れ、相変わらず教科書通りの笑みを広げた彼女はふわりと俺の髪を撫でて 再び集まって来るクラスメートに場所を譲るように背を向けると、ひらりと手を振って教室から出て行った。 「言っとくけど、解き方を教えるだけで答え丸写しはさせないぜ?」 俺は面映ゆさを誤魔化すように、むずむずする口角をほんの僅かに引き上げた。
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今日も君の隣は温暖区域(温度計の日) |