4月28日(土)

どうしよう!どうしよう!
同じ高校なのは知ってたけど、まさか向こうから話しかけてくるなんて…!






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今までの人生を振り返って、忘れられない言葉ってあると思うの。
わたしにだって幾つかあるけどその中にも色んな種類があって、 思い出すと胸がほっこりするものや、頭を掻き毟りたくなるような衝動に駆られるものもある。

もしもその中に、別の言葉で塗り潰そうとすれば逆にそっちを溶かしてしまい、 ならば記憶から消し去ろうとクレンザーで磨いても落ちないものがあるとすれば、それはきっと、


「鏡見て出直せば?」


――それはきっと、頑固な油汚れみたいに鼓膜にこびり付いて剥がれない呪いの言葉だ。



「いくらなんでもそれキツ過ぎじゃない?」
「えー?でもあたしどんなに中身が良くても顔面偏差値低い人無理だしー」
「あははっ!だからキッツイって」
「だってーその顔で告白かよって思っちゃうんだもん。ねねっ、もそう思わない?」


マスカラを何重にも塗っていた彼女がわたしを見上げて笑い掛けるので、 意味もなく弄っていた携帯から視線を外し、「んー……あ、」。今気付きましたと口を開く。


「ねぇもう次じゃん。早く片付けないとまた何か忘れるよ?」
「まじだ!急がなきゃ!」


マスカラビューラーライナーチーク、 床に広げていた道具が全てポーチに押し込まれたところで電車が止まり、 慌てて鞄を掴んで立ち上がった姿を確認して順番にドアを抜け、 流れに乗って改札を出ようとした手前で一人足を止めた。


「…あれ?」
「ん?どした?」
「定期見つかんない」
「えっ嘘!落とした?駅員とこ行く?」
「や、多分どっか紛れてるんだと思う。ちょっと探してみるから先行ってて」
「おけー。後で部屋メールする」
「ダッシュねダッシュ!」
「はいはーい」


改札を抜けて行く彼女たちに手を振って、ふう、息を落とす。
あんな短いスカートで走ったらパンツ見えるっての。


「……疲れた」


入るグループ間違えたかな。

入学して一ヶ月近く経つけど、あの子たちの非常識さにはついて行けない。
あれだけ色んな視線を向けられた中でよく知らん顔でいられるものだ。なんて素敵な鈍感力。
―だけど、わたしはあの中で上手くやって行くって決めたんだ。
高校では絶対に間違わない。


「ねえ」


邪魔にならないように壁側に寄って、鞄の中で握り締めた定期を人差し指で叩きながら、 さてどれくらい後に合流しようかと考えるわたしのすぐ近くで聞こえた声に僅かに肩が跳ねた。


「ねえ、そこのあんた。さっき電車で座り込んで化粧してたのの友達だろ?」
「……はい?」


ピンポイントで呼ばれて振り返ると、 うちの制服を着た男子が綺麗な顔を不機嫌そうに歪ませてわたしを見下ろしていて、思わず目を瞠る。


「これ、忘れ物だけど」


ゆらゆらとコーラの缶を揺らした彼はぽかんとするわたしに更に眉根を寄せ、一つ息を落とした。


「その色一年か。高校生になって色気づくのは勝手だけど、マナーくらい守りなよ。 大体制服着てあんなことやってたら学校にクレーム行くってわかんないの?私服だったら良いってわけでもないけど」


学年ごとにネクタイカラーが違うので彼がわたしの学年を当てるのは簡単だ。
未だに他の学年カラーをどっちがどっちかわかっていなかったわたしも、今はっきりした。
だって、彼が赤いネクタイをしているから。


「しいなせんぱい」
「え?」
「二年の椎名先輩ですよね?サッカー部の」
「…そうだけど、人の話聞いてた?あんたは少しまともそうだと思ったから声掛けたのに」
「あ!すみません。マナーは守れって話ですよね、ごめんなさい。ちょっとびっくりしちゃって。 その缶も捨てときます。ほんとにごめんなさい」


同じ車両に椎名先輩が居たなんて全く気づかなかった。
あの子たちも何も言ってなかったから気づいてなかったんだろう。

頭を下げて缶を引き取ろうと手を広げれば、先輩はまた一つ息を落としてわたしの手に缶を置く。
…これ、半分くらい残ってない?掴み直しながら思わず中を覗き込めば、やっぱり飲みかけだ。


「零れてなかっただけマシだね」
「…すみませんでした」
「ま、ぼくも遠目で見てただけで直接注意しなかったし。言い難いのはわかるけど、自分はやってなくても 一緒に居れば同じだと思われるんだから気をつけなよ。―はい、先輩としての説教はここまで」
「え?」
「わざわざ追い掛けてまで説教するくらいならその場で言うし。これも一緒に拾ったんだけど誰かのじゃない?」
「…、あっ!そうです、友達のです!」
「生徒手帳なんてクレーム入れてやろうって思ってたやつに拾われてたらお終いだぜ? 悪いのはそっちだから言い逃れできないし」
「ありがとうございます。友達にも言っときます」
「ぼくの名前は出さなくて良いから注意だけしといて」
「はい。…そういえば先輩、部活どうしたんですか?」


受け取った生徒手帳を鞄に入れて、ふと浮かんだ疑問を口にする。
今日はうちの高校が月一でやるオープンスクールで、わたしと友達は今回の手伝い係りに指名されて今はその帰りだけど、 部活見学があるからサッカー部は午後も練習の筈だ。


「午後から別の用事があるから抜けた」
「そうなんですか」
「それじゃ行くから……あ、そうだ」


改札に向かおうとした先輩は歩き出そうとした足を止めて再び振り返ると、


「いくらなんでも“鏡見て出直せ”はないんじゃない?」


少しだけ首を倒して告げれば、彼は今度こそ振り返らずに人の流れに乗って消えて行った。

一人残されたわたしの胸の内を、椎名先輩は一生知ることはないのだろう。





***





自分の事棚に上げて何言ってんの?