「………ごめん」
はたはた、はたはた、まるで別の生き物みたい。
あたしの意思を置き去りにして溢れ出す涙は、何度も何度も膨らんでは落ちて行く。
熱を持った目は今にもどろどろに溶けてしまいそうだったけれど、たった一言、ぽとりと落とされた言葉に、
笑っちゃうほど呆気なく思考から熱は引いた。
「ごめん、忘れて。ごめん。…ごめん」
離れて行く温度に手を伸ばしたりしない。
だけど、次々と膨らむ熱は冷めなくて、
はたはた、はたはた、遠ざかる背中に声を殺して鳴いた。
4/19
「今日そればっか見てるね」
「、え?」
「だからー、携帯。普段そんな弄ってないのに。今日なんかあるの?」
突き刺すような冬が溶けて学年が一つ上がって、
去年の今頃もあたしの一つ前の席に座っていた友人はそう言ってシャープペンをくるりと回した。
手元も見ずに器用な子だ。意識して口角を引き上げ、机の上に広げられたルーズリーフを指す。
「なんでもないよ。それより、早く写しちゃわないともう休み時間終わるよ?」
「やばっ、急がないと」
慌ててシャープペンを滑らせる姿に小さく息を落として、机の片隅に居座り続けていた携帯を鞄の中に滑り込ませる。
…このままあたしの頭の中からもいなくなっちゃえばいいのに。
そんなこと、思うだけ無駄だってわかってる。だって今日は、――。
抱きしめられた冬の日から、翼くんとは一度も会っていない。
鼓膜に直接熱を注ぎ込むように何度も何度もあたしの名前を呼んだ彼はとても苦しそうで、泣きそうで、
聞きたいことは沢山あったのに、何一つ訊ねることはできなかった。
ただ一つわかったのは、やっぱり翼くんはあたしの気持ちに気づいていて、
そしてあたしは、伝える前に振られたのだ。…連絡なんてできるわけがない。
こんな感情いつまでも持っていても虚しいだけなのに、わかってるのに、どうして消えてくれないんだろう。
あの日から吐き出し続けた溜息を小瓶に詰めたら、一体どれくらい幸せになれるのかな。
きゅっと握り締めた手のひらに、今日もとっぷりと三日月が刻まれるのだ。
「じゃあね、また明日」
「うん。部活頑張ってね」
連絡が多かった為に長引いたSHRが漸く終わり、慌てて部活に向かう友人たちに手を振って鞄のファスナーを閉める。
今日はバイトも休みだから真っ直ぐ家に帰ろう。
浮かんでは消えて行く思考の合間に見え隠れする単語を意識的に片隅に追いやりながら黙々と足を動かしていたけれど、
門の辺りがやけに騒がしいことに気づいてふと目線を上げた。
「あの制服って頭良いとこじゃないっけ?」
「うわ、めっちゃカッコイイ人いる!彼女待ちかな?」
ぴたり、足が止まる。
辺りを漂うざわめきをあたしの脳は言葉として変換できず、ただただ、揺れる赤茶色に全神経を奪われた。
「…?」
かちり、絡んだ視線と紡がれた音に痺れた脳が悲鳴を上げ、指先がぴくりと弾ける。
逃げなくちゃ!瞬時に全身を巡った危険信号に縫い付いた足をべりっと剥がして一目散に駆け出した。
早く、速く、追ってきた声に髪を絡め取られる前に、ずっと遠くに逃げなくちゃ。
――それなのに、
「あのさ、帰宅部が現役サッカー部から逃げ切れると思ってんの?」
肩で息をするあたしとは裏腹に殆ど息の乱れていない声が真後ろから聞こえたと同時にぐいっと肩を掴まれて強引に振り向かされる。
呆気なく幕を下ろした逃走劇だけれど道行く人の目を引いたようで、何事かと突き刺さる視線から逃げるように目を伏せた。
何より、彼から逃げたかった。
「顔上げなよ」
「…」
口調は厳しいのに、どうして、
「」
その響きだけは酷くやわらかく鼓膜を撫でる。
なんて酷い人なんだろう。そんなんじゃまた勘違いしてしまう。特別だって、思ってしまう。
だけどもう、あの時みたいに告げられた言葉を深読みして一人舞い上がって、粉々になる勇気なんて残ってない。
ほんとは言ってしまいたかったよ。「翼くんが好きだよ」って。聞きたかったよ。「翼くんは?」って。
だけど翼くんがとても苦しそうだったから、目を逸らしたがってたから、だから、
全部あたしの酷い勘違いなんだって、そう思って、追いかけなかったのに。なのに、
「……勝手、だ」
「なに?」
「翼くんは、勝手だ!」
混ざり合った感情が爆発する。
「忘れてって言ったくせに。ずっと好きな人がいて、それはあたしじゃないって言ったくせに。
人が折角忘れようとしてるのになんで会いに来たりするの?なんで追いかけて来たの?なんで今日なの?」
頭の隅の冷静な部分がこれ以上言っちゃ駄目だと囁いているけど、どうやったって止まらない。
喉の奥がひりひりと痛い。きゅうっと両手を握り締めて、下を向いたまま、どろりとした熱を吐き捨てる。
「も、やだ。やだ、ぜんぶやだ。全部やめる。つばさくん、すきなのも…全部やめるっ」
ぼろぼろと剥がれて行く感情が次々と両目から落ちて行く。
最悪だ。こんなところで子供みたいに泣きじゃくって、きっと翼くんも困ってる。呆れてる。
折角の誕生日なのに。折角会えたのに。もっとちゃんと、なんでもない顔でおめでとうって言えば良かった。
ぼろぼろ、ぼろぼろ、溢れ出す涙と一緒に、翼くんを好きだって気持ちも全部出て行っちゃえばいいのに。
「…なんで、」
ぽつり、零れた声は苦しそうで、泣きそうで、掴まれたままの肩に走った小さな痛みにゆるゆると視線を上げる。
……なんで、
「なんで、翼くんが泣いてるの?」
はたはた、はたはた、音もなく滑り落ちる熱を、彼は拭おうともしない。
「の、所為。…知ってたよ。お前が俺のこと好きだって、ほんとはずっと気づいてた。
だけど俺にはずっと好きな人がいて、じゃなくて。……全然、違うのに、そんなの俺じゃないのに。
―気づきたくなかった。勘違いだって思いたかった。お前が俺を諦めれば、元通りになれると思ってた。
俺は勝手だから、が傷付くってわかってて酷いこと言った。…なのに、すげぇ苦しくて」
こんなにも綺麗に泣く人を、あたしは知らない。
なんて勝手な人なんだろうと、酷いことをしておいて更にあたしの所為にするなんて最低だと、
文句の一つくらい言ってやっても良い筈なのに。はたはた、はたはた、零れ落ちる涙から目が離せない。
「いい加減認めようって。自分勝手にお前のこと傷付けたから、全部決着付くまで連絡するの止めようって決めて。
勝手だけど、が俺に甘いの知ってたから…。
仲直りしようと思って会いに来たのに目が合った途端不審者でも見たように逃げ出すし」
「そ、れは、」
「やっと捕まえたのに、俺の顔見ないし」
「だって、」
「俺のこと嫌いとか言うし」
「え、嫌いなんて言ってないよ?」
涙なんてとっくに引っ込んだ。思考はぐるりとマーブル模様を描いている。
翼くんの瞳がぷくりと膨らんだので慌てて手を伸ばし、ぽろりと零れた大粒の涙を袖口に染み込ませると、
「だって好きなの止めるんだろ」
濡れた目で真っ直ぐあたしを見つめる翼くんに心臓がどくりと脈を打つ。
「俺今日誕生日なんだけど」
「…知ってる」
「プレゼントは?」
「……」
「ふうん。またないんだ。それじゃあ俺がリクエストしても良いよね?」
なんだろう。なにかが可笑しい。
至近距離であたしを見下ろす翼くんはぽろぽろと涙を零しながら、唇で綺麗な三日月を象った。
「俺のこと、好きになって」
そっと手を取られて、小指に小さな三日月が降る。
…なんて、ずるい人なんだろう。
「なにかぼくに言うことは?」
どうやらあたしは、とんでもない人に捕まってしまったようだ。
真ん丸く見開いた瞳に映り込んだ翼くんは、悪戯が成功した子供のようにとても嬉しそうに微笑んだ。
結ばれた赤い糸
「誕生日おめでとう。悔しいけど、だいすき」
|