3/8(Thu)





物心付いた時から当たり前のように彼女のことが好きだった。
その「好き」が父や母に向けるものと違うと気付いたのは彼女が見知らぬ男と親しげ笑い合っている姿を見た時だろうか。 幼いぼくの小さな身体に駆け巡った電流は複雑に絡み合う感情を呼び覚まし、ぼくは初めて恋を知った。

それからはもう、少しでも彼女に見合う男になれるようにとただただ必死で、
手当たり次第知識を詰め込んでは大人振り、体格差があっても負けないように護身術も覚えて、 少しでも彼女の視界に入ろうと側に居る内に彼女を虜にするサッカーに魅了されるのにそう時間は掛からず、 彼女への感情に憧れもプラスされた。

彼女より目線が高くなったらこの想いを伝えようと思っていた時期もあったんだから、俺も中々可愛かったよね。

唇から零れた柔らかな吐息に、「楽しそうね」。耳慣れた声が降る。



「さっきから何を読んでいるのか聞いても良い?」
「ラブレターだよ」
「その缶の中全部そうなの?」
「うん。でも全部が全部告白系じゃなくて、何かアイドルに送るファンレターみたいなのとか、ちょっと面白いのとか色々」
「あら素敵。それにしても随分沢山あるじゃない」
「高校入ってから律義に毎月届けに来るお節介なやつが居たから」
「そう。それじゃあ翼が大人になったのはそのお節介な子のお陰かしら」
「…聞き捨てならないんだけど」
「だってあなた、今まで一度だって読んであげたことないでしょう?受け止めるだけの心が出来た証拠じゃない」



ぱちんと片目を瞑った彼女に苦虫を噛み潰したような思いで息を落とす。 ああ、やっぱりいつまで経っても彼女には敵わない。

頑なに読むことを拒んでいた手紙は封を切ってみれば籠められた文字が優しく俺を撫で、じわりと心に温かな重みをくれた。

毎月一通ずつ綴ってくれる人もいれば、折角郵便屋なんて面白い制度があるのだから一度くらい書いてみようと、 恋と呼べる程ではないけれど好意を寄せている相手として俺を選んでくれた人もいたし、 どうやら恋文配達の条件である「返事を求めない」のも筆を取り易くしたらしく、 必ず読まれるわけではないので気軽に想いを綴ることが出来たそうだ。



「そう言えば翼、昔私に可愛らしいラブレターくれたわよね」
「、は?」
「あの頃は本当に可愛かったわ」
「ちょっ、何?いつ!?」
「憶えてないの?とっても嬉しかったから今も大事に取ってあるんだけど」
「捨てろよ!」
「嫌よ。もう私のだもの」
「…はあ。で、一体何て書いたわけ?可愛かったぼくは」
「内緒。でも、きっともう二度と言ってもらえないわね」



すらりと伸びた人差し指を唇に添えて彼女が柔らかく双眸を細めるので、俺は眩しくて釣られるように目を細めた。 ―ああ、好きだな。好きだったな。



「想いが変わっても、俺の初恋が玲だったことは変わらないよ」



何の気負いもなくすとんと落ちた言葉に驚いたのは俺自身で、玲は嬉しそうにとびきりの笑顔を広げて、 歌うように五回、唇の形を変えた。






「…何であんたが居るわけ」



照れくさくて俯いた俺に極自然にお使いを頼んだ彼女に二つ返事で頷いて家を出たが、 目的地のドアを潜ると目に入った人物に思わず純粋な疑問が漏れた。



「あれ?椎名くん?」



対する彼女もきょとんと瞳を瞬かせて俺を見るものだから挨拶代わりの憎まれ口は音にはならず、



「……バイト?」
「雇われてはいるけど、多分君が思っているのとは違うんじゃないかなー」



楽しそうに笑って何かを確認し始めた彼女だが、暫くすると不思議そうに手を止めて口を開く。



「うーん、ないなー。もしかして椎名くん写真を受け取りに来たわけじゃないの? でも見た感じ手ぶらだから現像じゃないでしょ。あ、もしかして撮影?」
「最初のであってる」
「うっそ、リストに椎名ってないよ?…さてはお父さんミスったな」
「頼んでたのはぼくじゃなくて、……お父さん?」
「へー、お父さんのお使いか。でもごめんまだ出来てないみたい。ちょっと待ってね」



そう言って奥へ引っ込もうとした彼女を慌てて呼び止め、 不思議そうに首を傾げる姿を見ながら猛スピードで思考する頭はやがて一つの答えを導き出し、



「もしかして、あんたの名字『佐川』?」
「うん、そうだけど。え?もしかして私の名前知らなかったの?何だかんだでこの一年それなりに濃い会話もしてたのに今の今まで?」
「だって誰もあんたの本名呼ばなかったじゃん」
「いやいや流石に先生はあだ名ばっか呼んでたわけじゃないから。てか椎名くんが居る時にも佐川って呼ばれてたよね熊先生が呼んだよね」
「あれは、…クロネコヤマト的なあれかと」



思わず目を逸らせば大きな溜息。
いやでも勘違いしてんの俺だけじゃないぜ絶対!



「あー、もうショック。ほんとショック。好かれてないのは知ってたけどさー。この薄情者め」
「悪かったよ。でもそっちだって名乗らなかった癖に」
「郵便屋は基本そうなんですー」
「…あんたそんなキャラだったっけ?」
「素だからね。私もう郵便屋じゃないし、あれが作ってたのは知ってたっしょ?」
「まあ、」



郵便屋と言うキャラクターを演じていたのは知っていたが、いくらなんでも砕け過ぎ。
今までの印象があまりにも強烈だった分違和感は否めない。



「それに薄情って言うならそっちもだろ。答え合わせは今度みたいな流れ作っといて、結局あれから一度も姿見せなかったじゃん」
「最後の配達だってちゃんと言ったでしょ。それに私にだって色々やんなきゃいけないこととかあるんだから、 手の掛かるクソ生意気な一年に態々会いに行く暇なんてなかったし」
「…あっそ」
「でもま、その様子だと自分の中の答えは見つかったんだ?」
「お陰さまで。だからこそ、あんたの答え教えてよ」
「ちゃんと教えるから怖い顔しないでよ。私の二つ年下の従妹が『』だって言えば、頭の良い君なら解るでしょ?」
「、」



薄々彼女の関係者ではないかとは思っていたが、実際に突き付けられると何とも形容し難い感情が渦を巻く。
ぎゅっと眉根を寄せる俺に、はああ、わざと聞かせたような大きな溜息。



「言っておくけど、あの子が何か話したわけじゃないからね。慕ってはくれてるけど何でもぺらぺら喋る子じゃない」
「…わかってる。でも、何で?」
「最初はほんとに何も知らなかったよ。ただ顔の良い新入生が入ったから仕事が増えるなって思っただけで。 でも、夏休みにとある筋から情報が入りまして」
「その筋って?」
「まあまあそう急かさないで。聞くところに寄ると椎名くん、夏休みに某アイスクリームショップに度々通ってたんだって?」
「…まさか、」
「あの子にバイト紹介したの私なんだよねー。中学ん時の友達が元々そこでバイトしててさ。 で、そいつが『お前が可愛がってる従妹にイケメンの虫が付きそうだ』って連絡して来たわけよ」
「……まじかよ」
「まじっす。イケメンが椎名くんだって特定するのはすぐだったし、 そっからはまあ、色々想像するじゃん?遠回しに彼氏出来たのかチェックとかもするじゃん? でもって自分で言うのもあれだけど私って世間一般で言えば色んな意味で『頭の良い』人間だから、…ね?」



にやりと口の端を片方だけ持ち上げた彼女に思わず片手で顔を覆う。

つまり彼女は、中学の時から俺が何かと気に掛けていた「彼女」の従姉で、 大切に育てた初恋と新たに芽生えた想いの狭間で揺れる煮え切らない俺の姿に思うところがあって度々口を挟んだと言うわけだ。



「…、…勘弁してよ」
「ふはっ!なーに、色々バレてたって気付いて穴があったら入りたい寧ろ自分で掘りたい気分? 良いじゃん良いじゃん、ミミズだってオケラだってみなしごハッチだって生きてれば恋くらいするんだから」
「…そこはアメンボじゃないわけ?」
「細かいことは気にしなーい」



郵便屋の役を降りた彼女の笑顔は少し歪で、だけど、柔らかい。
そうして一頻り声を転がした後に改めて俺を映し込んだ双眸がくにゃりとしなる。「でもさ」。…うわ、ヤな予感。



「自分可愛さに私の可愛いを傷付けておいて、まさか自分だけ無傷でいようなんて思ってないよね?」
「無傷だったわけじゃないけど」
「知ったこっちゃないね。君、確か来月誕生日でしょう?それまであの子に会うのは勿論一切連絡取るの禁止で」
「、は!?何言ってんの?早く会って色々話さないと拙いんだけど」
「自業自得でしょーが。いっそ君振られちゃえば良いよ。嫌われてしまえ」
「…あんた、ほんとイイ性格してるな」
「ありがとう。もし約束破ったら大好きなあの子の前では常に格好付けてる椎名くんが 実はとっても情けなくて酷いやつだってことを懇切丁寧に説明するからそのつもりで。…で、結局君は誰のお使いなのさ?」
「……西園寺玲」
「え、あの美人なお姉さん?…ふーん、成程成程」



にやにやと愉しそうな笑みを広げた彼女は、「と言うことではいこれどうぞ」。棚から取り出した封筒を差し出す。 …ああもうほんと勘弁してくれ。内心頭を抱えながら早く受け取って帰ろうと手を伸ばす刹那、 ぱしりと掴まれた手首を引かれると同時にカウンター越しの彼女が身を乗り出して、―「      」。



「、え?」
「私の名前だよ。ちゃあんと名乗ったんだからその優秀な頭にしっかり刻み込むように」



直接耳に注がれた六文字をゆっくりと反芻して、ぱちりと瞬き。
…ああ、もう、本当に、



「同じとか勘弁してよ」



漸く本名を名乗った女に抱く感情はこの一言で事足りる。








--------------------------------------------
みなしごハッチ、恋をする(みつばちの日)