2/14(Tue)





両手でそっと、細い首を絞めていた。息は出来るように、だけど、言葉を紡げないように。
彼女の想いに気付きながら目隠しをした日々は、どれだけ彼女を苦しめただろう。



「…結局また、生殺しだ」



大切な物を守りたくて、大切な者を傷付けた。
始めることを許さず終わりさえ与えないぼくはどこまでも臆病で、―「きたない」。






「やあやあ椎名翼くん。今日は血湧き肉躍る聖バレンタインだけれど、ご機嫌如何かな?」
「……色々ちょっと待て」



効果音が響いてきそうな笑顔を以下略。 口の端が引き攣るのを隠さず今まさに俺の下駄箱に手紙を落とそうとした彼女に制止を掛ける。
一時停止ボタンを押されたように唇に綺麗な弧を描いたままぴたりと動きを止めた彼女は、 はああ、大きく吐き出した息に促されるようにこてりと首を傾げた。



「これはまた盛大に幸せを逃がしているね。おや?よく見れば目の下に隈があるじゃないか! 折角のバレンタインデーに君がそんな顔をしていてはこの日に後押しされて直接君に会いに来るお嬢さん方が 胸を痛め兼ねない。…よし、此処は私が魔法でその隈を、」
「その手に持ってる物にファンタジー要素の欠片もねーよ」
「…もしや椎名くんこれが何か知っている?」
「コンシーラーじゃないの?」
「ふむ、モテる男は乙女の秘密道具にも詳しいのか」
「…何かもう色々メンドクサイ」



こいつの話に一々突っ込んでいたらいつまで経っても先に進まない。はああ。 深く息を吐き出してまずは彼女の用件を済ませてしまおうと手のひらを上にして差し出せば、 俺を見下ろす双眸が愉しそうに揺れた。



「おやおや、今日は珍しく積極的だねぇ。お嬢さん方も喜ぶよ」
「あんたはほんと相変わらずだね。一応聞くけど三年って自由登校じゃなかった?」



郵便屋から受け取った手紙を鞄に落とし、次いで上履きを床に落としながらふと過った疑問を口にする。
俺にスペースを明け渡すように彼女は一歩後ろに下がって、朗朗と台詞を読み上げるべく透明な台本を捲った。



「そうとも。けれど登校日が数回あってね、先生方の粋な計らいで今日がその日なんだ」
「へえ。でもどーせあんたのことだから意味もなく毎日来てんだろ」
「名推理だよ椎名くん!然れど一つ訂正させて頂くなら私は決して『意味もなく』登校しているわけではないよ」



一歩、足を踏み出せば視線が上がる。
段差を上がっても彼女との差が埋まらないのは今更だが、低い位置から見上げるのと同じ高さに立つのとは気持ちの面で大きく異なるのだ。



「私が郵便屋を務めるのも残り僅かだから、今は後任の育成に日々励んでいるのさ」
「…卒業出来んの?」
「…椎名くんや、私と言う素敵な先輩がこの学び舎から去ってしまうことを寂しく思っているのはわかるけれど 照れ隠しにしてもその言葉選びは人を選ぶ。相手を間違えれば血の雨が降るところだ」
「センパイのその自信って何処から湧くの?」
「澄んだ心の泉から」
「おい通り魔無差別テロも大概にしろ登校早々腹筋が死ぬあとその笑顔何かウザイ」



胸にそっと手を当てて無駄に煌めく笑顔と共に放たれた言葉によって 会話が聞こえる範囲に居た生徒が一斉に吹き出した。南無。心の中でそっと両手を合わせる。
腹筋に爆弾を落とした張本人は相も変わらず飄々と登校してきた生徒に片手を上げて爽やかに朝の挨拶を振り撒いているのだから始末に負えない。

はああ。何度目かになる溜息を吐いて片手で顔を覆う。
彼女の振る舞いがあまりにいつも通りで緊張していたこっちが馬鹿みたいだ。



「また溜息かい?ほら吸って吸って。逃がしてばかりいないで偶には自分から捕まえなよ」
「幸せって吸い込むものだったの?」
「形が定まっていればそれも一つの手だとは思わない?」



楽しそうに首を傾げた彼女は、「と言うことではいこれどうぞ」。鞄から取り出した何かを俺の目の前ににゅっと差し出した。 …近過ぎて見えねえよ。顔の前から退かすように押しやれば逆にその手を掴まれる。



「スパイシービターに糖分を。君はもう少し自分を甘やかしてあげても良いんじゃなあい?」



しっかりと握らされたのはコンビニで見たことのある



「チョコオーレ?」
「これなら飲めるだろう?」
「これって百円のだろ。なに、ぼくにはお手軽に買えちゃう幸せで十分ってわけ?」
「手軽に手に入るならそれに越したことはないじゃない。だけど、そうだな。もっと上を望むならそれに見合う努力をしなくちゃ」
「甘やかせって言ったり努力しろって言ったり、矛盾してるって気付いてる?」
「矛盾上等!仕方がないさ、私たちは強欲だもの。けれど欲しがりばかりの我儘が大目に見てもらえるのはお子様だけだ。 …ねえ椎名くん。君を苛めているのは一体『何』で、『誰』なのかな?私には、君の手がこの首を絞めているように見えて仕方がないんだ」



長い指がそっと首を、喉仏をなぞる。
触れるか触れないか、掠めた温度は自分の体温と混ざってすぐにわからなくなり、ただ、音もなく微笑む彼女に息を呑む。



「…何処まで知ってるの?」
「私との答え合わせより先に君は君自身と答え合わせをしないと」
「…、ぼくは、」
「難しく考えずに出来ることから始めれば良いよ。丁度今日はバレンタインだし、人の想いと向き合うには良い機会だ」
「……受け取れってこと?」
「既に一つ受け取ってくれたでしょう?」
「これは違うだろ」
「酷いなー。私から椎名くんへの愛情がたっぷり籠っているのに」
「百円に?」
「百円に」



くすりと空気を転がして俺の手に握られた紙パックを指した彼女は、「それにね」。ゆっくりと指先を俺の鞄へと移した。



「恋文と謳ってはいたけれど、不思議だよね、恋にも愛にも色んな形がある。人の数だけ想いの形は違うんだ。 想いは確かに重いけれど、君に積もった沢山の想いがやがて君自身の重さになる」
「…、」
「ちょっとの風で吹き飛ばされちゃうような椎名くんより、私はいっそ太太しいまでにどっしりとした君の方が好きだよ」
「…その言葉選びってどうなの?」
「相手を間違えれば血の雨が降るかもしれないなー」



にんまりと口角を左右対称に引き上げたチェシャネコに吐き出しそうになった息を吸い込んだ。

――ほんとは、答えなんて疾うに出てた。
頑なに認めようとしないのは臆病なぼくの甘えで、彼女を手放したくないが故に始まりも終わりも拒んだのは俺の我儘。

大切なものが一つ増えると大切なものを一つ失くさなければいけないなんて、そんなの俺の思い込みで、



「想いが変わっても俺の重みが変わるわけじゃないのにな」
「変わるのは失くすとは違うもの」
「…ははっ、そっか、そうだよな。あーあ、ダッサ。あんたの前だとこんなんばっかだ」
「いくら君が整った容姿に優秀な頭脳を持っているからと言って常に格好良く居られると思ったら大間違いだよ」
「ご丁寧にご教授どーも」
「どういたしまして。いやあ、思わぬところで椎名くんの長い鼻をぽきっと出来たようで。我ながら最後に良い仕事をしたなー」
「酷い言い種。…ねえ、最後って?」



眉を寄せて訊ねれば彼女は変わらぬ笑顔を広げ、



「私が君に手紙を届けるのはこれで最後だよ。次の配達は春休み前の予定だから、もう私は此処に居ないもの」



…だから、そう言うことは早く言え。
言ってなかったっけ?とぼけた顔で小首を傾げた郵便屋にどんな言葉を投げようか。 まずは思い切り息を吸い込んだ。








--------------------------------------------
スパイシービターに糖分を(聖バレンタイン)