「さんって好きな人いる?」
その一瞬で、心臓を絞られた。
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恋心を自覚したあの夜から季節は巡り、想いは変わらぬまま二度目の冬。
自覚したもののあと一歩を踏み出すことが出来ずに中学を卒業したまま一度ぱったりと関係は断たれたが、
あたしにとって夢のような再会を果たした夏休みに連絡先を交換してからは電波に載せて何気ない日常を共有したり、時折顔を合わせてお喋りに興じる機会を得た。
それは、彼があたしのバイト先に顔を出してくれたり、重なった休みに一緒に出掛けたりと様々だ。
変わったことはいくつかある。
中学時代は曖昧だったあたしと彼の関係に今は友人という立派な名前が付いたし、
あの頃より踏み込める領域が増えたことで些細な衝突からの口喧嘩も何度か経験した。
変わらないこともたくさんある。
あたしが彼に抱いた恋心は褪せるどころか更に濃さを増したし、
友人に昇格した今も彼はあたしのことを「さん」と呼ぶ。時折敬称が消えることはあっても、決して下の名前は呼ばない。
欲を言えば、下の名前で呼んで欲しい。
だってあたしは「翼くん」と呼んでいるし、呼ばせたのは翼くんだ。
自分の名前に好きも嫌いも特にないけれど、でもきっと好きな人に呼んでもらえたら特別な響きになる筈。
……そんなこと、口には出来ないけれど。
宙ぶらりんな現状に何度ハサミを入れようとしただろう。
今の関係は酷く心地が良くて、可能ならばずっとここにいたい。
それなのに肺の奥から膨らんでくる感情が今にも喉を震わせそうで、心のどこかでそれを期待している自分もいる。
言いたい。言えない。言わない。何処へも行けない感情をあたしはいつまで閉じ込めていられるだろうか。
「…髪伸びたね」
「え?ああ、そろそろ括ろうかな」
「切らないんだ?」
長い睫毛に縁取られた大きな瞳が一度だけあたしを映して、返事の代わりに口の端をほんの少し持ち上げる。
伏せられた視線の先、指先で摘んだ赤茶色の髪を視界に納めながら彼はなにを見ていたんだろう。
―そんなことまで知りたいと思うなんて、あたしも随分貪欲になったものだ。
誤魔化すように両手で握った缶に目を落としゆっくりと口を付ける。
じんわりと広がるココアの甘さと温もりにほうっと白い息を逃がした。
学校帰り、地元の駅で偶然鉢合わせた翼くんと折角だし一緒に帰ろうと肩を並べてすぐに、
「見てるだけで寒いから」と自販機で買い与えられたのがこのココアだ。
その時の翼くんの視線は膝上で揺れるスカートを遠慮なく眺めていたし、もっと言うならスカートとハイソックスの間で冷たい空気に刺され放題の足を見ていたが、
憐れむような視線に言葉以上の意味が含まれている筈もないので特に気にはならず、
ただ漠然と、今度からタイツにしようかなあと防寒対策について思考を巡らせたものだ。
ほんとはジャージを穿いてしまうのが一番暖かいけれど、以前翼くんが「制服のスカートの下にジャージは有り得ない」
と眉を顰めていたので彼の前でそんな格好はしないと決めた。…学校では偶にするけれど。
そうっと目線を持ち上げて隣を歩く横顔を盗み見る。
中学の頃は大して変わらなかった、というかあたしの方が若干高かったのに、高校生になってから翼くんは背が伸びた。
最初は再会そのものに驚いていたので気づくのに遅れたが、変わってしまった目線の高さに随分戸惑ったし、
正直今も、ミルクティーを飲み込むたびにこくりと上下する喉仏から目が離せない。
翼くんは会うたびに少しずつ変わって行く。
きっといつかあたしが恋に落ちた「男の子」は完全に消え、今以上に人の目を奪う「男の人」なってしまうのだろう。
その時あたしは、まだ彼のそばにいられるだろうか?
今みたいに隣を歩くことは出来るのかな。手を伸ばせば届くこの距離をいつまで許されるだろう。
「ッ、――。」
恋なんて、言葉にすると随分薄っぺらいのに。
それなのにそんなものに一々揺さぶられて、手足を絡め取られて、ずぶずぶと溺れてしまう。
翼くんに恋をする女の子たちは、以前あたしに恋をしてくれた彼は、ずっとこんなものと戦っていたんだろうか。
誰かを好きになる感情が決して綺麗な物だけではないとは知っていたけれど、少なくともあたしは、翼くんに出逢うまでこんな感情は知らなかったよ。
「…さん?」
下の名前で呼んで欲しい。口にしたならきっと叶えてくれるそれを、伝えるキッカケがわからない。
白い息と一緒に滑り落ちた音に前触れもなく目頭が熱くなる。
慌てて何でもないのだと笑うつもりで口角を持ち上げるけれど、頬がひくりと痙攣するだけでとてもじゃないが笑顔には見えないだろう。
あたしの引き攣った表情に翼くんはふさふさの睫毛を揺らし、やがてゆっくりと形の良い唇を開いた。
「さんって好きな人いる?」
ぎゅうっ と、固く絞られた雑巾みたいにあたしの心臓が悲鳴を上げる。
苦しくて呼吸の仕方がわからない。はくはくと意味もなく酸素を取り込んで、その後どうすれば良いのかを思い出せない。
肺の奥が膨らんで爆発しそうだ。「―さん」。耳をくすぐる澄んだ音に思い出したように深く深く息を吐く。
いつの間にか足は歩くことを止めていて、半歩先で立ち止まった翼くんはじいっとあたしを見下ろしていた。
「……、急にどうしたの?」
「うん、なんとなく気になって」
悪戯っぽく笑った翼くんには、まだ中学生時代の面影が残っている。
彼はほんとうに可愛く笑う人なのだ。
「で、いるの?いないの?」
「………い、る?」
「何で疑問形?でもま、そっか。じゃあぼくらお揃いだね」
「、え」
「なにその顔。ぼくにだって好きな人の一人や二人くらいいるよ」
「……」
「ちょっと、そこは二人じゃ駄目だろって突っ込めよな」
「…ぁ、うん、そだね。ごめん」
「動揺し過ぎ。そんなに意外?これでもずーっと一途に片想いしてたんだけど」
はあ、肩を竦めて溜息を吐く翼くんにあたしは何の反応も返せない。
翼くんが、片想い。
ふと脳裏に浮かぶのは中学時代にサッカー部の監督をしていた綺麗な女性。
彼女とは親戚だと言っていたし、幼い頃からずっと想い続けていたんだろうか。―あの綺麗な人を。
くらくらと視界が眩む。耳元で心臓がばくばくと音を立て、喉が焼け爛れてしまいそうだ。
どうして彼は突然こんな話をしたんだろう。
もしかしたら頭の良い彼にはあたしの気持ちなどとっくに悟られていて、
下心を持って友人の位置に居座るあたしについに嫌気が差したのだろうか。
翼くんは何のメリットもなく嫌いな人をそばには置かないから少なくともあたしは友人としては好かれている筈だけれど、
それ以上の感情は彼にとって重荷でしかない。
だから、友人として遠回しにこれ以上の関係には成り得ないのだとあたしに教えてくれたんだろうか。
唄うように紡がれる甘やかな声に、あたしは何を返せばいいの
「さん?」
あたしの肩に手を置いて覗き込むように首を傾げる翼くんに、わなわなと感情が震えた。
衝動のまま溢れそうになった言葉をぐっとお腹の底に押し戻して小さく呼吸を整える。
ぐるると唸る汚い感情なんて好きな人の前で晒したくない。
「両想いに、なれるといいね」
今度はちゃんと笑えたと思う。あたしの唇は正しく三日月を描いたのに、目の前の翼くんは驚いたように目を瞠る。
そうして口を開こうとして、結んで、大きく舌を打ち鳴らすとあたしの肩をぎゅっと掴んで引き寄せた。
からん。手の中から缶が転がってみるみるうちに指先から温度を失くす。
息が苦しくなるくらいの強い力に脳に酸素が回っていないのか、一体何が起こったのか理解が追いつかない。
「―、」
直接耳に送り込まれた音に意味もわからないまま涙が溢れる。
真冬なのに全身が熱くて、頭の後ろと背中に回された温もりに漸く自分は翼くんに抱きしめられているのだと知ったけれど、繰り返し繰り返し囁かれる甘い毒を孕んだ特別な響きに思考はどろどろに溶けてしまうのだ。
「俺がずっと好きだったのはじゃないのに、お前といると変になる」
恋と微熱
いっそ何も考えられなくなるくらいの熱に浮かされてしまいたかった。
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