当たり前だが、英士くんの友人たちは彼が我が家に居ることを知ると直ぐに連れて行ってくれとわたしに頼んだ。
けれど頼まれたわたしは二人に怒鳴られるのを覚悟で「英士くんへの恩がある手前彼の意思を無視して会わせることは出来ない」 と告げたのだが、彼らは顔を強張らせはしたが声を荒げることはなく、静かに、失踪する前の英士くんに何があったかを話してくれた。

その内容があまりにも衝撃的だった為に、わたしは今こんなにもどろりとした感情に侵されているのだ。


「英士くん」


わたしの帰りを待っていたと言う彼に食欲がないから一人で食べてくれなんて言える筈もなくいつも通り一緒に食卓を囲み、 テレビを観ながら片付けを済ませ、順番にお風呂にも入った。
いつもならば眠くなるまでリビングで二人、会話もなくそれぞれ好きなことをしながら同じ空間で過ごすのだけれど、 いつも通り読書を始めようとした彼の名を呼びしっかりとその目を見る。
英士くんは何か察したのか本をテーブルに置いて、しっかりとわたしに向き合ってくれた。


「今日、若菜さんと真田さんに会ったよ」
「…」
「ごめんね。本当は英士くん以外の人から勝手に聞いて良い話じゃなかったけど、でも、全部聞いたの」


きゅっと膝の上で手のひらをきつく握る。わたしは動揺を顔に出してはいけない。そんな資格はない。


「ねえ、英士くん。あなたはわたしにどうして欲しい? とても酷いことを言うけど、直接わたしに関係のあることじゃないから正直どうしたら良いのかわからない。 謝罪が必要なら何度でも言うし、この家を手放せと言うなら手放す。 慰謝料が足りないなら家を売って、わたしに入った分の遺産と足して全部あげても良い。…ねえ、英士くん。 わたしはどうすれば良い?あなたは、わたしをどうしたくて、あの日わたしに会いに来たの?」


彼との出会いは偶然ではなかった。
まあでも、彼もまさか憎き人殺しの娘が男に殴られている場面に遭遇するとは思わなかっただろうけれど。

端的に言えば、わたしの両親の所為で彼は事故に遭い、彼の大切な人が亡くなったのだ。

全面的に彼らは被害者で、けれど加害者も事故で逝ってしまった。
わたしに連絡が着た時既に必要な手続きは全てお抱えの弁護士たちがやってくれていたし、 遺族への謝罪も彼らに止められ許可が下りなかった。

厭らしい話だが多額の慰謝料を払っても尚あの人たちが貯めに貯めたお金は底が見えず、 随分前に勘当されて以来一切連絡を取っていなかったにも関わらず諸々の理由でわたしに入った この家を含めた遺産はおぞましい額で、一度も手を付けていないので全額残っている。

わたしは両親とは違い世の中お金が全てだとは思っていないけれど、でも時に世界は非常で非情、 少しでも心を軽く出来るのならわたしは全部手放したって構わない。 元よりわたしの物ではないのだし、肉親の犯した罪を肉親が償うのも世の道理だ。

わたしに話してくれた二人は、加害者の家がこの街にあり今は娘がその家に住んでいることは知っていたが 顔までは知らなかったらしい。知っていたら店に尋ねて来た時点で安っぽい笑顔を振り撒くわたしに怒声の一つや二つ 浴びせることも出来たろうに、話を聞いた喫茶店でも此方からわたしが「そう」だと告げることはなかったので彼らは変わらず知らぬまま。

けれど、今わたしと同じソファーに座っている目の前の彼は違う。

あの日、殴られたわたしを介抱してくれた彼は財布の中に入っていたわたしの個人情報を見ただろうし、 万が一その時気付かなくてもこの家で過ごしていれば気付かない方が難しい。

この一ヶ月、彼は何を想ってわたしと同じ空間で過ごしていたのだろうか。
わたしに沢山の優しさをくれた彼は、些細なわたしの言動に一体どれだけ傷付いたのだろう。
――わたしには一生わからない。


「、……」


真っ直ぐ彼を見つめるわたしに、英士くんは唇を開いて、けれどそこから音は響かずきゅっと結んでしまう。
大切な人を失ったショックで彼は声を失ったそうだ。
一体いくつ奪うのか。わたしの全てを差し出したところで彼に何一つ返せないのに。

力を入れ過ぎて震えるわたしの手に綺麗な指が触れ、そのままそっと包まれる。 予想外の出来事にわたしはぽかんと彼を見つめることしか出来ない。
英士くんはゆっくりと両手でわたしの指を一本ずつ開いて、くっきりと爪痕が刻まれたわたしの手のひらにするりと人差し指を滑らせた。


「……『ご』『め』『ん』?、なんで?英士くんが謝ることなんて一つもない…!」


ぶわりと膜を張った視界で彼は泣きたくなる程綺麗に微笑む。
触れた途端崩れてしまいそうな儚さと繊細さに、わたしはただ首を横に振ることしか出来ない。

ゆっくりと文字を描きながら英士くんが微笑うから、わたしはもう何一つ繕うことなんて出来なくて、 こぽり、目の前の彼が溺れてしまう。


「何でありがとうなんて言うの?違うのにっ、全然違うのに!だってわたしは、わたしは英士くんの、」


続く言葉は唇に触れた人差し指に遮られた。言わないで。そんな仕種にぽろぽろと涙が溢れる。
そうして子供のように泣きじゃくるわたしの頭を彼は髪を梳かすように柔らかく撫で、沢山沢山、話をしてくれた。 テーブルの上のメモ帳はどんどん厚みを失くし、わたしの大好きな綺麗な文字が真っ白を黒く染めて行く。

けれど黒く染まったわたしの心は、文字を追っている内に少しずつ白くなるのだ。






*






ああ、今日が休みで良かった。昨晩散々泣いた所為でまだ目蓋が腫れている。
昼過ぎまで寝ていたい身体を無理矢理起こし階段を下りれば、 ソファーでテレビを観ていた英士くんが振り返って、「おはよう」。と音のない声を紡いだ。


「おはよう。何時に駅だっけ?…そっか、じゃあそろそろ行こっか。え、ご飯? まだお腹空いてないから帰りにコンビニで何か買って食べるよ。……うん、ちゃんと食べるから。はいはいわかってますー」


この一ヶ月で彼はすっかりわたしの保護者が板に付いてしまったらしい。
不規則なわたしの生活も英士くんが来てから随分マシになったのだ。とは言えまだまだ規則正しいとは言えないけど。



駅までの道のりに会話らしい会話はなく、日頃からただ黙って側に居ることが多かったので今更沈黙は苦ではない。

予定の時間より早く着いた駅で邪魔にならない位置で並んで立ち止まる。
身一つで我が家にやって来た英士くんだが、実はジーンズのポケットにICカードだけは入っていたのだ。 ただ、この街に来るのにチャージしていた分を殆ど使ってしまったので残金はゼロに等しい。
チャージするかと財布を出せば首を横に振られた。此処まで迎えに来る友人たちから借りるそうだ。

耳元で聞こえない筈の音が聞こえる。カチカチと進んで行く時間は止められなくて、もうすぐ彼は行ってしまう。

じっと改札の向こうを見つめる横顔を見上げ、じわりと込み上げてくる感情に目蓋を落とすことで蓋をする。 わたしと英士くんの関係はこれで終わるのだ。悲しみしか生まない関係は終わりにしようと、昨日話し合って決めた。 ――だから、


「英士くん」


名前を呼んで、此方を向いた彼にぴんと立てた小指を差し出す。
英士くんは不思議そうに首を傾げたけれど、ほんのりと口角を上げてわたしの小指にそっと小指を絡めてくれた。

絡めた小指を解いたら、ちゃんと一人で歩き出さなくちゃ。


「今までいっぱいありがとう。お願いだから、幸せになってね」


わたしがあなたに幸せをあげることは出来ないけれどせめて、祈ることだけは許してください。

僅かに目を瞠った英士くんに微笑んで小指を解く。
するりと抜き取って、改札の向こうで彼を呼ぶ二人に向かって背中を押した。




Requiem




…のに、
一歩前に出た筈の足がくるりと回り、瞬く間もなくわたしの身体は温かなものに包まれる。


「ッ、―ありがとう、。いっぱいごめん」


ぎゅうっと胸が圧迫されて息苦しさに涙が出た。
そうして注がれる声の優しさに、わたしは一瞬で溺れてしまうの。


「お願いだから、幸せになって」


――こんなにも愛しい音を、わたしは知らない。






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葬送曲(レクイエム)...一般に、人の死を悼む楽曲、またはその形式または性格を持つ楽曲。「Requiem(安息を)」

Special Thanks*わかばさん
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郭英士誕生日企画サイト「0125」の2013年度に提出させていただいたお話です。