拾い拾われの関係のわたしと「彼」こと英士くんは、結論から言えば暫く我が家で一緒に暮らすこととなった。 …だって恩人を寒空の下に身一つで放り出すなんて出来ないし、お金だけ握らせるのも人として…ねえ?

ちなみにあの時彼が読んでいた文庫本はわたしの鞄に入っていた物だったが、 勝手に読んでごめんと綺麗な文字で謝られたので許した。 …そう、英士くんはとてもきれいな字を書く。字フェチには堪らない。 額に入れて飾りたいと言って首を横に振られたわたしは勿論字フェチである。

英士くんを家に連れ帰ったあの日、行く当てがないのなら暫く家に住むかと提案した時には あまり悩む様子もなくありがとうと頷いた癖に、数日経ってお互い遠慮が抜け始めた頃に「危機感が足りない」だの 「それだから男に騙される」だの散々お叱りを受けた。
此方の言い分としては恩があるのは勿論、越してきたばかりのこの家は部屋が沢山余っていたし、 元恋人には金返せと言ったけれどそれなりの額の貯金があるので食いぶちが一人増えたところで生活に何ら支障はないのだ。

ただ、わたしは現実をしっかり生きているのでお金の大切さを知っていて、多ければ多いに越したことはないと思っているだけで。


わたしが家に居る間は勿論、昼間働きに出ている間も彼には書庫の本を好きにして良いし 家電も自由に使って良いと告げている。
余っていた合鍵も一つ渡したので戸締りさえしてくれれば外出だって自由だ。
ただ、急に居なくなられると食事の用意に困るので必ずメモを残すことと、 この家を出ると決めたなら鍵はポストに入れて行くことだけはしっかり約束してもらった。

そんな不思議な共同生活を始めてそろそろ一ヶ月経とうとしているわけだが――。


「今更だけど英士くん、ご家族や友人に連絡はした?」


本当に今更過ぎる疑問だが、今になって聞くのはそれなりの訳がある。
分厚い本から顔を上げた彼はゆっくりと首を横に振った。…まじか。 英士くんと過ごしている内に色んな話をしたが、彼は決して天涯孤独の身ではないし、恐らくちゃんと帰る家もある。 だからきっと、遅れてきた反抗期故のちょっとした家出なんだろうと思っていたのだけれど、


「、え?…あ、いやそれは平気。最初に言ったけどどうせ部屋は余ってるし一緒に暮らし始めて今まで 特に困ったこともないし。てか英士くんわたしが居ない間に掃除とかしてくれるから助かってるんだよねー。 …まあでもあれだよ。誘拐犯にはなりたくないから、連絡はちゃんとしといてね。 家の電話使っても良いし外で掛けるならお金貸すからさ」


そんじゃお風呂行ってきまーす。お湯が沸いたのを知らせる軽快な音楽にソファーから立ち上がる。
英士くんはそんなわたしを目で追って、一度頷けば再び視線を本に落とした。
さて、その頷きは何に対する返答だったのかな?


わたしが働いているお店には時々人捜しを請け負っている、探偵?のような人がビラを持って訪ねて来るのだが、 何と本日わたしが店番している時にやって来た男性に渡されたビラに載っていたのは 今もリビングのソファーで読書をしている英士くんだったのだ。

本名郭英士。年齢二十四。身長体重、いなくなった時の服装等々、複数の写真付きのそれを見ながら 何度か聞いたことのある説明を右から左に流しつつしっかりと営業スマイルを保っていたわたしは、 我ながらよく声を出さなかったものだと拍手を送りたい。
…まあ、あの場で「彼なら我が家で家政婦してますけど?」と言い出すだけの勇気諸々がなかっただけだが。


「どうしたものか」


取り敢えず熱いお湯で心も身体も温まろうそうしよう。






*






英士くんにさり気なく家に連絡入れろと告げて数日、彼は相変わらず我が家で自由気ままに過ごしている。
今日は「日が出てる間に布団を干すから」と、わたしにしては早い時間に起こされた。 シーツも洗ってくれるらしい。精が出ますね。

わたしの部屋も英士くんが使っている部屋も内側から鍵が掛けられるのだがわたしは一度も掛けたことがない。 だって寝惚けてうっかりドアに顔面強打とか嫌だし。起き抜けの頭じゃ間違いなく鍵を開ける動作を忘れる。
そんな話を最初にしたら英士くんはあまり表情の変わらない整った顔を歪めて大きく溜息を吐いてたっけ。
今じゃそんな彼も数回ノックしてもわたしの反応がなければ部屋に入って起こしてくれるまでになりました。 お陰で夜更かしした次の日も遅刻の心配がありません。ありがとうありがとう。


チリンチリン、ベルの音にしゃきっと背筋を伸ばし笑顔を作る。「いらっしゃいませー」。
見覚えのない男性客が二人。続けて入って来たが連れだろうか。偶にタイミングが重なっただけの他人の場合もあるので要注意。


「いらっしゃいませ。会員カードはお持ちでしょうか?」
「あ、いやそうじゃなくて、」
「はい?」


何だどっかの企業か?広告の案内かポスターを貼らせて欲しいかどれだ。店長居ないからどっちにしろごめんなさいだけど。
笑顔は崩さずに思考を巡らせれば、茶髪の男性がスマートフォンを操作しながら口を開く。


「今ちょっと人捜してて、こいつなんですけど、店に来たことないですか?」


差し出された画面に失礼しますと声を掛けて良く見えるように覗き込む。……うん? 店に来たことはないけどとても見覚えのあるお顔です。と言うか、「えーと、」。 引き攣りそうな口許を誤魔化しながら後ろのラックからバインダーを取り、ペラペラと紙を捲って一番下を開く。 抜き取った一枚を今度は此方が彼に見えるように差し出し、


「以前ご家族から依頼された方がいらっしゃいました。データを検索しましたが、今日までに彼が当店を利用したことはないですね…」
「…そうですか」
「あいつこーゆーとこ来ねえもんな」
「……あの、失礼ですがお二人は…ご友人、ですか?」
「あ、はい。十年以上の付き合いで。昔からしっかりしてて人に心配掛けるようなことしないんですけど…ちょっと今は、色々あって精神的に不安定で」
「不安定、」
「居なくなるちょっと前に事故に遭って、あいつの怪我はそんな酷くなかったんすけど、でもちょっと、」
「…それは心配ですね」


酷い怪我をしていた様子はないけど、もしかして喋れないのはその事故が原因だろうか。
地雷を踏むのはご免なので詳しく聞いてなかったが、先天的なものではなさそうだったので後天的、 或いは一時的なものだろうと推測してはいたのだ。

がっくりと肩を落とした二人を見ながらどうしたものかと視線を落とす。
英士くんへの恩はある。彼は何か思うところがあって今はどうしても帰りたくないのかもしれない。 が、英士くんを捜している本人たちを前にして知らぬ存ぜぬを通す程わたしも薄情ではなくて。


「あの、すみません。わたしあと二十分で上がるんですけど、少しお時間もらえませんか?」


彼について話したいことがある。しっかりと目を合わせて告げれば、二人は顔を見合わせてから頷いてくれた。






*







こんなにも足が重いのは決して休憩なしの立ち仕事を続けていたからではないだろう。 気持ちが重くなると身体まで重くなるのか。頭の中をぐるぐると回る言葉に吐きそうだ。

家に帰るのが嫌でとろとろと歩くわたしの肩を誰かが後ろから掴んだのはそんな時で、 わたしは突然のことに足を踏ん張ることも出来ずそのまま後ろに傾いた。


「、……英士くん?」


ぽすんと柔らかな衝撃に何かに寄り掛かった体勢のまま上を向けば、街灯に照らされた英士くんの強張った顔。 …怒っている?見たことのない表情にはっとするも、取り敢えずと自分の両足に力を入れて体勢を立て直す。


「どうしたの?え、や、ごめんわかんない。…うん?時間?……あっ!そっか帰りが遅いから、心配して? でもわたし次の人が遅刻して帰りが遅くなることもあるって言ったし今までもあったよね? ……、あーそっか、今日月曜日か。月曜と水曜は次の人がめっちゃ早く来るから絶対残業はないって前に言ったねーあはは」


英士くんが早口で何かを紡ぐ度に響かない音の代わりに彼の唇から白が滲む。
前からでなく後ろから来たということは、迎えに行ったのに店を覗いたらカウンターに別の人が立っていて 慌てて近所を捜してくれたのかもしれない。実際に息が上がってるようだし、今までも何度かお迎えに来てくれたことはあるのだ。


「…ごめんね。ごめんなさい」


しっかりと頭を下げると、ふわり、柔らかな感触。
ふわふわとわたしの頭を撫でた英士くんはわたしの鞄をそっと攫って、反対の手でわたしの手を掴むとそのままゆっくりと歩き出した。




Nocturne




「ごめんね」


呟いた謝罪の本当の意味を、彼はまだ知らない。






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夜想曲(ノクターン)...主としてピアノのための、夜の情緒を表す叙情的な楽曲。

Special Thanks*わかばさん
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郭英士誕生日企画サイト「0125」の2013年度に提出させていただいたお話です。