絡めた小指を解いたら、ちゃんと一人で歩き出さなくちゃ。


「今までいっぱいありがとう。お願いだから、幸せになってね」






*






じんじんと痛む頬を押さえて蹲る。一体何がどうなったのやら。
頭はしっかりと状況を理解しているのに感情が追い付かない。でも、取り敢えず、えーっと、


「今まで貸したお金は返してもらえるの?」


この男にいくら貢いだと思っているのだ。 生きて行く上でお金はやっぱり必要で、悲しみに溺れていても誰も可哀想なわたしに募金なんかしてくれない。 のに、現実を見据えた問いの返答は本日二度目の頬への衝撃だった。解せぬ。






*






目が覚めると青い空が見えた。
雲一つなく澄んでいて、柔らかな陽射しは眠っていた思考の覚醒を促す。 確か、恋人だと思っていた男に殴られたんだっけ? と記憶を現在に繋いだところで浮かんだ疑問の答えを探るべく心地良さに閉じていた目蓋をぱちりと開けた。

先程は空の眩しさにすぐ目を閉じてしまって気付かなかったが、視界の隅に何か人の手のような物が見える。 というか、うん、手ですね。本で顔は隠れているけれどさらさらと風になびく黒髪がとても綺麗です。 更に今更気付いたけれど、頭の下にある硬いような柔らかいようなこの感触。…うん、太股かなー。

つまりわたしは殴られて気を失って、現在進行形で親切などなたかに膝枕をしてもらっているらしい。What?


「…」


どれくらいこうしてたのか知らないけど、この人痺れて動けなくなってたりしないだろうか。 それなりに中身の詰まったわたしの頭はさぞ重かろう。申し訳ない。
取り敢えず起きようと気合を入れたところで、ふわりと何かが頭に触れて思わず停止する。
…なんだこの感触は。髪を梳かすように優しく撫でられてとても気持ちが良い。
うっとりと目を閉じようとしたところで、いかんいかんと首を振った。冷静になってわたし。流されちゃダメゼッタイ。

今度こそと気合を入れるも、カバーを掛けられた文庫本がさっと横に動き、 隠されていた顔が真上からわたしを覗き込んだ為にまたしてもわたしは停止することになるのだ。


「……おはようございます」


じっと見つめてくる切れ長の双眸に思わず間の抜けた挨拶をしてしまった。
マフラーで口許が埋まっているので全体はわからないが、真下から見てもとても整った顔立ちのその人は わたしの言葉に返事はせずに、そっと頬を優しく撫でる。
撫でられて気付いたが、どうやら殴られた左頬の手当てまでしてくれたらしい。 今更ながらガーゼの感触に気付いてぱちりと瞳を瞬く。


「えーと、色々とお礼とか言いたいんで、取り敢えず起きますね?」


言えば、彼は覗き込んでいた顔を元の位置に戻してくれたので透かさず腹筋に力を入れて起き上がる。 一発で上手く起き上がれた自分に感動しつつ、膝の辺りで丸くなっている物にまたしてもはっとした。 足首までをすっぽりと覆ったそれは恐らく短いスカートのわたしを気遣って彼が掛けてくれたのだろう。 その証拠に彼はコートを着ていない。こんな真冬に何て事を。
申し訳ない気持ちですぐに着るとは思いつつもコートを綺麗に畳みながらベンチに載っていた足を地面に下ろし、 隣に座っている彼へとしっかり向き直ってまずはがばりと頭を下げた。


「色々とご迷惑をお掛けしてすみません。ありがとうございます」


ごめんなさい寒かったですよね。顔を上げてコートを差し出すと、彼は静かに首を横に振ってから袖を通した。 何て出来た人だろう。


「怪我の手当てもお兄さんがしてくれたんでしょうか?…わーっすみません!えっと、お金を、」


予想通り頷いた彼に慌てて側に置かれていた鞄に手を伸ばす。 まさかガーゼ諸々を持ち歩いていたわけじゃなかろう。
何でもお金で解決させるのは良くないが、それでも気持ちの問題である。
財布を抜き取り金額を聞こうとしたところで少しひんやりとした手がそっとわたしの手に重なり、 顔を上げると彼がゆっくりと首を横に振る。…いやいやいや。ここは食下がろうと口を開くより前に、 彼の綺麗な指先が中途半端に開いていたわたしの財布を指した。何だ? きょとんとしながらも小さく上下した指先に促されるようにお札をしまっているスペースを開くと、 今日はまだ現金を一度も使っていないのに何故かレシートが一枚。 もしやと思って取り出すと、購入した商品名にはガーゼや消毒液の名が並んでいる。 …これはつまり、うん?


「わたしのお金で買ったから支払う必要はないってことでしょうか?」


尋ねれば彼は静かに頷いた。なーるー。納得するわたしに彼はほんのりと眉じりを下げて、 更にはくいっとマフラーを下げると、「   」。音のない声を紡ぐ。 話の流れや表情から多分ごめんと言ったのだろう。

見知らぬ人間に勝手に鞄、選りにも選って財布を開けられた上にお金を使われれば怒りも覚えるだろうが状況が状況だ。 そこまで頭の固い大人ではないので今度はわたしがふるりと首を横に振る。
まあでもやっぱり大人なので、諭吉の数やカードの有無を素早く目で確認したけれど。


「お礼がしたいんですがお時間ありますか?連絡先を教えて頂けるなら後日改めて、」


続く言葉は唇の前に翳された手のひらに遮られた。ちょっと待って。と言うような仕種に首を傾げる。
じっと彼の動きを窺うわたしに、彼は左手に右手で文字を書くような動きをして見せたので頷いて鞄から手帳を取り出し メモ用のページを開いてペンと一緒に差し出した。
微かに口角を持ち上げて受け取った彼が文字を書いているのをぼんやりと視界に収めながら、 先程から何となく引っ掛かっていた疑問が解消されすっきりとした頭で思う。

どうやら彼は喋れないらしい。

接客業をしていれば時折そんなお客さんも来店されるが、此方がわかり易い口の動きで話せば彼らは上手に唇を読んでくれる。
ただ、目の前の彼の場合はわたしが鞄を漁る為に彼に背を向けて喋っていた内容もしっかり聞き取っていたようなので、多分耳は聞こえているのだろう。

そうして色々と考えている間に文字を書き終えた彼が手帳をわたしに見えるように開いた。


「『携帯を持っていないから連絡先は教えられない』。…成程。えっと、じゃあ差し支えなければ住所、…はい? えーと、『家がない』?……お兄さん、今までどこで生活してたんです? おう、秘密ですかそうですか。 ちなみに現在の所持金を伺っても?」


筆談とジェスチャーを交えれば会話は難なく成立するものだ。
恐る恐る尋ねた最後の質問に彼は右手をくるりと丸めて見せた。 …成程。つまり彼は今、身一つということか。




Waltz




「えー……じゃあ、取り敢えず家来ます?」


捨て猫を連れ帰る感覚で人間をお持ち帰りする日が来ようとは、二十数年生きて来て一度も思わなかったなー。






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円舞曲(ワルツ)...テンポの良い淡々とした舞曲、及びそれに合わせて踊るダンス。

Special Thanks*わかばさん
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郭英士誕生日企画サイト「0125」の2013年度に提出させていただいたお話です。