「えーちゃん」 舌足らずに俺を呼ぶ声は昔から変わらない。 俺がいくら冷たくしても馬鹿の一つ覚えのように。「えーちゃん」。何度も、何度も。 約束をすっぽかそうが待ち合わせに何時間も遅れようがどれだけ無視を続けようが、たった一言、俺が「」と呼ぶだけで嬉しそうに微笑うのだから、きっとこの幼なじみは頭が弱いんだと思う。 「えーちゃん」 「…」 「えーちゃん」 「……」 「ねえ、えーちゃんってば!」 いい加減煩いので黙らせる為に視線をやればは如何にも怒っていますと言わんばかりに両手を腰に当てて口を尖らせる。 漸く視線が合ったは良いが一向に口を開かない俺に先に音を上げるのはいつも彼女だ。 「今日、宿題見てくれるって言った」 全く以て記憶にない。これも最早数えるのも無駄という程にあることだが、過去の自分が彼女の話に適当に相槌を打った結果だろう。 穏やかな昼下がり、ぴたりと閉め切った窓の外からは子供特有の甲高い声が響き、恐らく近所の公園で遊んでいるのだろうが俺は幼い頃から外で駆け回るより部屋に籠って一人の時間を過ごす方を好んでいたので年齢に関係なく子供の気持ちはわからない。 ―幼い頃から大した成長の見られない目の前の彼女の気持ちなら手に取るようにわかるのだが。 「…えーちゃん」 「教えたところで学ばない人間には教えるだけ無駄」 「でもわたしこれ全部解けなきゃ進級できないって、」 「そう」 突き放すように告げればショックを受けたように瞳を揺らす。 何を真に受けているのか知らないが彼女の頭で全問正解など無謀。それは教師も十分理解している筈なのだから、進級できないというのはただの脅しでしかない。それくらい気付けば良いものを。…ああ、無理か。何故なら彼女は頭が悪い。 部屋を包む沈黙を破ったのは無機質な音で、摘んだ携帯を耳に当て二言、三言、―「わかった、今行く」。 本を閉じて上着を取る際にを一瞥すれば傷付いたような顔で俺を見上げていた。 「えーちゃん、なんで?」 「出掛けるから出て」 「だって今日は、」 「帰って来たら見てあげる」 「……二人とはいつも一緒なのに」 「」 俯く彼女を咎めるように呼べばびくりを肩が揺れたけれど、ゆるゆると持ち上がった顔には嬉しそうな――、 「絶対ね。帰ったら絶対来てね?わたし待ってるから」 行ってらっしゃいと手を振って彼女は隣の家へと帰って行く。 似たようなやり取りを過去何度もして、それらは殆ど果たされたことなど無いのに彼女の記憶力はどうなっているのか甚だ疑問であるが、それを利用する俺が何よりも一番悪いというのは誰に言われるまでもなく理解している。 * 「うわひでえ」 「呼び出した張本人がなに言ってるの」 「来てもらっといてあれだけど、戻んなくて良いのか?」 「ムダムダ一馬。だってこいつ、」 「一馬順位落ちたら拙いんでしょ」 「…おう」 「俺が教えるんだからそれなりの点取ってよね」 「英士くーん、俺にはー?」 「あ、結人いたの?」 「ひでえ!」 * 帰宅が遅くなったのは主に結人の所為だ。―とは言え、現状は連絡の一つも入れなかった俺の所為でもあるのだろうが、玄関の前で蹲っている塊にそっと手を伸ばせば酷く冷たく、舌打ちしたい衝動を何とか堪えてその名を呼ぶ。―「」。もぞり、微かに動いた身体は、けれどそれ以上は動かずに。 「…」 仕方がないと着ていた上着で彼女を包むように抱え上げ家に入り、居間に敷かれたカーペットの上に寝かせるまでの間も微動だにしない姿にただただ眉根を寄せる。部屋から持って来た毛布を掛け、エアコンによって室内が十分に暖まった頃、漸くぴくりと睫毛が揺れた。 「……、えーちゃん?」 舌足らずな呼びかけに溜息で返す。未だ完全に眠りから覚めてはいないのか、彼女は俺を見上げてふにゃりと相好を崩して、 「えーちゃん、おかえり」 ふつふつと湧き上がってくる感情は、なんだろう。 「…馬鹿だとは思ってたけどここまで馬鹿だとはね」 「えーちゃ、」 「いい加減気付きなよ。何回俺に裏切られてるの。いくら待ってたって無駄なんだよ」 俺を見上げる顔が悲痛に歪む。 理不尽なのはわかってる。今俺が怒るのはお門違いだ。――けれど、でも、 「何でいつもそうなの?ただ待ってるだけ。文句でも何でも連絡の一つくらい寄こせば良いだろ」 昔からそうなのだ。はいつも待つだけで何も言わない。待ち続ける間たった一度も連絡を入れることがない。 今日のように約束をふいにされても、去って行く俺の背に手を伸ばしてまで止めようとはしないのだ。 早口に捲し立てる俺に驚いたように、彼女はぱちぱちと瞬きを繰り返す。 そうして困ったように眉を下げればゆっくりと身体を起こした。 「…えーちゃんは、しつこいのが嫌い。うるさいのも嫌い。命令されるのが、一番嫌い」 「わたしね、えーちゃんがちっちゃい頃からわたしのことばかにしてるの、ちゃんと知ってるよ。わたしはえーちゃんよりずっと頭が悪いけど、多分えーちゃんが思ってるよりは悪くないの。 だから、…だから、」 「……だから、なに?」 口を噤んだを静かに促す。 俺から逃げるように落ちた視線を捕まえるべくそっと覗き込めば彼女はまた困ったように情けなく眉じりを下げ、膝の上で毛布をぎゅっと握り締めた。 「これ以上、嫌われるのは、いやだなあ」 今にも泣き出しそうな彼女が、俺の前では決して涙を零さないことを知っている。 そして俺は、彼女のそういうところが、―「ムカツク」。 「ってほんとうに俺の神経を逆なでるのが上手いよね」 刹那、見開かれた瞳。彼女の双眸に住まう俺がぐらりと揺れた。 「が考えてることなんてすぐわかる。気付いてることくらい最初から知ってたよ。でも、だから?昔から散々俺の周りで騒いで我儘ばっかり言って、それで嫌われたくないなんて今更でしょ」 「…、ごめんなさい……」 「謝るくらいならいい加減その性格直しなよ。何を意地になってるんだか知らないけど、馬鹿なら馬鹿なりに素直になれば?」 わなわなと震える手を覆うように俺の手を被せて、紙のように白い顔をじっと見つめる。 揺れる二つの水槽の中で歪むのは、 「そばにいてって言いなよ」 ぽとり、零れ落ちた涙を唇で掬った。 -------------------------------------------- stand by me...訳、「私のそばにいてほしい」 たった一言が言えない女の子と、言わせたい英士くんのお話。 Special Thanks*つばきさん +++ 郭英士誕生日企画サイト「0125」の2012年度に提出させていただいたお話です。 |