彼がこの家に訪れるようになってどれくらい経っただろう。
最初こそ互いに警戒し距離を置いていたが、今では私の頭に伸ばされる手を振り払わずある程度好きにさせてやるくらいには縮まっている。

とはいえ、私はこの男をあまり好いてはいない。

だってこいつがいると私のお気に入りのソファーを譲らなくてはならないし、 家の者が彼ばかりを構って私を蔑ろにする―とは言い過ぎだが、まあつまり面白くないのだ。


(この家のアイドルはこの私なのに…!)


ふつふつと沸き上がる感情に全身の毛という毛が逆立ってしまいそうだ。
いかんいかん、落ち着け私。じろりと彼を睨みつけながら昂った心を静めていれば、 私の隣でテレビを眺めていた男が音も少なく立ち上がる。
…そう、私はこいつが日頃からあまり音を立てないのも気に食わない。
いるならいるとわかり易く行動しろ。存在感を出せ。
食後でうとうととまどろんでいる時などに突然頭を撫でられてもみろ、驚くじゃないか…!

全く余所者の分際で私の心臓を縮み上がらせるなど許すまじ所業だ。
立ち上がった男を目で追うのは決して寂しさからではなくこいつが私の家で悪さをしないように見張っているのだ。

静かに数歩進んだ男はやがて庭が見えるガラス戸の前で足を止め、そっと戸を引いた。


(なんてことを…!)


暖房によって暖められていた室内に冷たい空気が攻め入ってきて、私はまたしても全身の毛という毛が逆立ちそうになる。
不覚にもぴあっと縮み上がってしまったが、彼の眼は外を向いているので問題はない。

鼻先から感じる冷たさは私をぬくぬくの毛布がある部屋へ押しやろうとしているようだがそうはいくものか。 どうして先にここにいた私が余所者の所為で出て行かなければならんのだ。
これは一言言ってやらねばと思い、私はあの男よりもっともっと上手に音を殺して気づかれぬように距離を埋める。―よし、


「ごめん、寒かった?」


一発お見舞いしてやろうというところでこちらを振り向いた男は、 言葉とは裏腹にちっともすまなさそうじゃない顔で私の頭にそっと手を伸ばす。きもちい…が、こんなことで誤魔化されるものか! それに普段から冷たい手が更に冷たくなってるじゃないか大馬鹿者。
さっさと戸を閉めろと伸ばした手は届く前に阻まれた。


「少しだけ風に当たりたいんだ」


じゃあ出て行け!言ってやりたかった言葉は言葉にならず、仕方なくフローリングに腰を下ろした男の隣に座れば私を見下ろす彼は少しだけ目を瞠って、ほんの僅かに感情の読み難い顔を和らげたように見えたが瞬きの後には翳っていた。

―ああ嫌だ。私はこいつのこの顔を心底嫌っているのだ。

嫌で嫌で文句の一つ二つぶつけてやりたいのに、じっと見ている内にそんな感情がしゅるりと解けてしまい、結局私は彼への不満をぶつけられぬまま終わる。そればかり。


「わかってるんだ。今の俺じゃには届かないことくらい。」


壊れものでも扱うようとは正にこのことか。
私を撫でる手は酷くやさしく、少しだけ震えているように思える。…仕方がない。私だって寒いのだ。
ぷいと顔を背けたままそっと身体を寄せてやれば私に触れる冷たい手のひらがぴたりと動きを止めた。


(…?)


一向に動かない手を不審に思い顔を上げる。
見えるのは丸い頭で、顔は片方だけ立てた膝に埋めるようにしているので見ることは出来そうにない。 ―ああ、そういえば彼は私のようだと語っていたのは他でもない彼女だった。

強いと思われているがほんとうはとても脆いのだと、衝撃を与えれば粉々に割れてしまうのだと。


「だからね、そういう時は出来ればそばにいたいの。」


彼女が言っていた「時」とはきっと今のことだろう。
それなら私がすることは決まっている。



「――、え?」


ただただ、大きな声で、なく

突然なき出した私には彼も驚いたようで伏せていた顔を上げ困ったように私を見るが知ったこっちゃない。 私はなくのだ。それしか出来ない。


「どうしたの?大人しくしてないとに怒られるよ?」


…それはお前の方だぞ郭英士。だって私は彼女が住むこの家のアイドルなのだ。
私をなかしたともあれば叱られるのはお前だお前。…ほら、言ってる間にも彼女の足音。


「英士くん、その子どうかした?」
「ごめん…さっきまで大人しくしてたんだけど急に……、」
「ううん、なんだろう…ご機嫌斜めなわけじゃないみたいだけど」


不思議そうな顔で私を覗き込む彼女に一度だけするりと身を寄せ、お気に入りのソファーへと戻る。


(仕方がないから今は譲ってやるよ。)


私と同じで真っ白いソファー。私はこれを大層気に入ってはいるが、一番のお気に入りは彼女の傍なのだから。



「もう大丈夫みたいだね。相変わらず気まぐれで困っちゃう」
「でもそこが好きなんでしょ」
「うん。だって飽きないもの。…ところで英士くん、寒くない?」
「ああ、ごめん。今閉める」
「私は英士くんのことを聞いたんだよ。開けておきたいならお好きにどうぞ」
「…は寒くないの?」
「なくはないなあ。でも平気」


彼女は先程の私のように男の隣に腰を下ろし、彼の肩にそっと自分の肩を寄せる。
少しだけ跳ねた肩、その上に続く顔は何もない空間へと逸らされたが彼女は気にすることもなく楽しそうだ。


「ねえ知ってる?猫ってね、懐いた相手にはそっぽ向いたり目瞑ったりするんだよ」
「猫は敵意がある相手からは目を逸らさないって言うしね」
「面白いよね、人間とは反対なの。わたしたちがやると天の邪鬼とか照れ隠しになっちゃうのに。」
「…なにが言いたいの」
「愛情表現の話だよ」
「そう、」
「そう。…あ、でも目を瞑るのは一緒だね」

「あれ?瞑んなかったや」

「……、…不意打ちは卑怯なんじゃないの。」
「愛情表現だもーん」


伸びてきた手から難なく逃れ、私の前にやって来た彼女は一度二度、私を撫でる。
…うむ、やっぱり彼女の手が一番好ましい。ごろごろごろ、目を細める私に彼女は小さく囁いた―「鳴いてくれてありがとう」。
にゃあご。尻尾を絡ませ応える私に彼女は至極嬉しそうに微笑んだ。


「それじゃあ英士くん、わたしまた戻らなきゃだからもう暫くこの子のことお願いね?」
「…そう、」
「そんな顔しなくても、びしっとお断りしてくるよ」


ぱたぱたと音を立てて出て行く彼女の背をただただ眺めていた男は、やがてくしゃりと顔を歪めて息を落とした。
そうしてソファーの真ん中で優雅に佇む私の目の前までやって来れば、有ろう事か私の身体をひょいと持ち上げ自分の膝の上へと下ろす―(こら!ここは私の特等席だぞ!)

今度こそ一言言ってやろうと思ったが私を撫でる手があたたかいので許してやることにしよう。


「お前のご主人さまには敵わないよ、ダイア」


当たり前だ。言葉の代わりに身を寄せる。

彼はいつか私と同じ名の石を彼女に贈るつもりのようだ。




adamas




私からお気に入りを奪うお前などその学生服とやらに私の毛が付いて困れば良いのだ!






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ダイアモンド...名前の由来はギリシア語の「adamas(征服できない、懐かない)」
耐衝撃性に優れているような印象があるが、鉱物としては靱性は大きくないので瞬時に与えられる力に対しては弱く、金鎚で上から叩けば粉々に割れてしまう。 触ると冷たく感じる。

Special Thanks*わかばさん
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郭英士誕生日企画サイト「0125」の2011年度に提出させていただいたお話です。